甘心情愿(西遊記)

 棒を突き立てられ、あわや、という時。地に臥した妖怪が罵詈雑言を吐き始めた。
 聞くに耐えない言葉だが、天井から吊るされている三蔵は耳を塞ぐこともできない。呪い交じりのそれをじっと悟空が聞いているのが、三蔵にとっては意外だった。

「……それでしまいか?」

 妖怪は思いつく限りの言葉を出し尽くしてしまったらしい。息の上がった妖怪に向かって悟空が大笑いする。てっきり怒りのままに棒を振り下ろすかと思っていた三蔵は、更に驚き目を見張った。

「親だと? この孫さんは親なんていない。石を割って生まれた石猿よ。斉天大聖すら知らないとは。玄孫以下の青二才め」

 悟浄はやれやれとでも言うように首を振っている。笑う悟空に猪八戒もいつもの軽口を合わせる。

「おれも母豚を割いて生まれて来たからな、そりゃあ死んでいるだろうなあ」

 と八戒は笑い、まぐわを振り下ろす。妖怪は九つの穴があき、ばたりと斃れた。洞内が静かになり、悟空は如意棒を耳の中へしまった。

「さあ、お師匠さん。今降ろして差し上げますからね」
「お師匠さま、おかわいそうに。吊るすこたあないのにね。血の巡りが悪くなる」
「お師匠様、遅くなって申し訳ございません。白馬も無事で良かった」

 妖怪が片付いた途端、弟子たちの様子が優しげな様子になる。弟子として迎えた直後はその変わり様が恐ろしかったが、妖怪に対しても根器があることを認めた今となってはなお恐ろしくある。これは弟子たちとの交わりで三蔵の中に生まれた慈悲の心、また旅の間に色々な妖怪を見てきた知見によるものだ。
 三蔵としても自分をとって食おうとする妖怪について思うことはある。しかし弟子たちと争う妖怪にも智慧や思いやりのあるものがおり、発心すれば、と思わずにいられない。魔道に落ちたものでも、罪を犯したものでも、悔い改めれば許されて悟りに至る。それが真でなければこの弟子たちも、救われない。
 縄を解かれ、手を借りて立ち上がりつつ、三蔵は弟子たちを見渡した。

「お師匠様はお疲れのようだ。少し休まれてから出かけましょう」
「そうだ。ここの妖怪ども、何か食べ物を貯めているかもしれない。ちょっくら探してきますよ」

 テキパキと動く弟子たちだったが、八戒が奥に消えた途端、悟空が悟浄へ耳打ちをする。すると、悟浄も奥へ消えて行った。不思議に思って見ている三蔵に、悟空が悪戯っぽく囁いた。

「悟浄に見張らせるんです。八戒が独り占めしても困りますからね」
「そんな……」

 と反論しかけた三蔵だったが、悟空の表情を見てやめた。悟空も一応は信用しているようだ。

「本当に疑ってたら、俺が行っていますよ」
「それも、そうですね」

 穏やかに笑って見せる悟空に、三蔵も頷く。たまにこうやって笑うようになったことは悟空にとっては大きな成長である。先ほど妖怪の前で悪鬼羅刹のごとく笑っていたことから一変、優しげな表情を見せる弟子に三蔵はほっとため息をついた。
 安心したところで、三蔵は不意に先ほどの言葉を思い出す。

「悟空、親がないというのはどういう意味なのですか?」
「あれ、以前にお伝えしていませんでしたっけ? さっきも言いましたが、石から――天地開闢よりある岩に生じた卵から生まれたのです。なので、血を同じくする親はいない、ということです」

 八戒や悟浄は身の上を話すのを三蔵は以前に聞いていたが、悟空の話を聞くのは初めてだと思う。八戒たちや妖怪たち、神仏たちは、五行山に封ぜられる前の悟空のことを本当によく知っている。みなが斉天大聖の名前を口したり弼馬温だなんだと罵ったりするのを三蔵は耳にしていた。しかし、その詳細について三蔵に事細かに説明するものは居ない。天宮を乱したことは悟空本人から聞いていたが、それ以前のことはあまり聞いたことがなかった。
 大事なのは過去ではなく、現在だ。そうは思っていても、他のものが悟空の昔の話をする時、何も知らないという事実が三蔵に居心地の悪さを感じさせていた。
 人の世界に斉天大聖の話はあまり伝わっていない。五百年も前の話だ。当時から生き残っているものもいない。悟空の斉天大聖としての時代がどれほどの期間だったのかは三蔵には分からない。

「そうですか。父母がおらず、寂しくはないのですか?」
「花果山の猿たちが居たし、いろんな獣や妖怪や何やらがいましたから」
「でもお前は他の猿とも違うでしょう? 悲しいことに、この世には無明の世界を生きる故に、自分と違うものを恐れるものも多いです。その――」

 三蔵は自分で尋ねながら、自分が何をこの悟空との会話から何を得たいのか分からなくなってきた。失礼な質問を重ねているのではないかと気づき、言葉を止める。しかし悟空は師匠である三蔵が自分のことを聞いてくるので、にこにこと返答してくる。

「確かに折り合いが良かったり悪かったりしましたが、俺こと孫さんをからかうようなやつは全員ひき肉にしてしまいましたから」

 思わず顔を顰める三蔵だったが、それに悟空は気づいたらしい。慌てた調子で言葉を付け足した。

「昔、俺にとっては天地が両親だと言ってくれた人がいます。ならば天地にいる限り、寂しくなどなりえましょうか」

 悟空の言葉に、三蔵はほうと息を吐く。

「素晴らしい言葉ですね。さぞ名のある方でしょう」
「それが俺の昔の――おっと、この話はしちゃいけなかったんだった。何はともあれ、父母からもらったものではないせよ名前もある。こうやって立派にしております」

 と、胸を張る悟空。

「お前は強いですね。私はお前のようには思えなかった……」

 思わず三蔵がこぼす。と、ちょうど戻って来たらしい八戒と沙悟浄が声をあげた。

「おやまあ、お師匠さまがあにきの強さを誉めるなんて珍しい」
「やい八戒! お師匠さんが大事そうな話をしようとしてたんだ。黙ってろ!」
「……臂力を褒めたわけではありません。それに、面白い話ではありません」

 悟空を宥めようとした三蔵の言葉は、逆に好奇心を煽ったらしい。悟空はもちろん、八戒と悟浄までもが興味を持ったようだ。

「どうぞ、続けてください」
「なんでそんなにもったいぶるんです?」
「気になりますね」

 見れば、白馬でさえ耳を立てて、こちらの話を聞いているらしい。さあさあとまくしたてる弟子に負け、三蔵は手短に話す。

「子供の頃、私は両親と生き別れていたのです。ある僧侶に拾われて、養育していただきました。しかし、名字も親もない家なき子だと言われて、ベソをかいていたという話です。悟空は天涯孤独の身でも、たくましく生きている。それを褒めただけです」
「ははあ、お師匠さまは子供の頃から泣き虫だったんだなあ」

 と猪八戒が笑い、三蔵も微笑む。
 言葉に出したことで、三蔵はなぜ今になって自分が悟空の昔の話に興味を持ったのかを悟った。自分と似ていると思ってしまったのだ。実際には、三蔵は生き別れとなっていた両親とは再会できたし、悟空はそんなことを気にしてはいなかったとしても。この強大な神通力を持つ敵なしの弟子が、弱い自分と同じ痛みを共有していることが嬉しかったのだ。

「……どうです。つまらないでしょう。さあ、そろそろ行きましょう」

 さて、と立ち上がると、八戒が荷を負い、白馬は馬体を下げた。

「いけない!」

 突然、悟浄が声を上げる。驚き振り向くと、悟浄が悟空と揉み合っていた。

「放せ! どうせ長安で甍を争っているようななまぐさ共だろう? 俺が行ってそいつらを痛めつけてやる!」
「悟空、やめなさい!」

 三蔵も慌てて悟空の前に立つ。

「あにき、手を貸してくれ!」
「何を言ってるんだ。悟空のあにきを止めるにゃ、お師匠さまにとっては簡単でしょうが。ほら、ちょっと呪文を唱えれば」

 助けを求める悟浄に、八戒はのんびりとした声を上げる。その言葉に、三蔵は困ってしまった。
 悟空のやろうとしていることは確かにいけないことだが、その発端はおそらく三蔵への共感である。せっかく芽生えた共感という慈悲の種をつむことは出来ない。しかし、この事態は自分のせいなのだと三蔵には分かっていたし、烈火の如く怒る悟空を抑えられる方法は緊箍児以外にない。

「いや、その……」

 三蔵が迷っているうち、悟浄の腕の中で、悟空が頭を抑えてうずくまった。

「うう、緊箍児だけは勘弁だ。分かりました、分かりましたよ!」

 強大な力を持つ弟子が、まだ締めつけもしないうちにそう言って身を小さくしているのは、三蔵にとってはあわれに思えた。悟空が言うことを聞かない時には呪を唱えるように言われているが、こちらに理のない状態でこうも怯えた相手に使えるはずもない。あくまで理屈が通じない時の緊急手段だ。
 三蔵は悟空の目の高さにしゃがんだ。

「悟空、お前が私のために怒ってくれたことは嬉しく思う。しかし、お前は五百年苦しみ、今は功徳を積もうとしている。今までの努力が無に帰すようなことをしてはいけません」

 悟空は金星のような目をぱちくりと動かし、ゆっくりと頷いた。三蔵としても痛みなどではなく、言葉で心からの理解をして欲しい。その思いの一端が、やっと弟子にも伝わったと三蔵は安堵した。
 
「お前に心懸く父母がいなくとも、私はお前の師です。僧は子を遺す事はなくとも、師資相承、教えと弟子を残します。師にとっては弟子は子どもです。お前の罪は私の罪になります。お前が不徳を働き、お前が救われないとするならば、私はやりきれません」
「はい」

 悟空がきちんと返事をしたのを聞き、三蔵は残りの弟子を見渡した。

「八戒、悟浄、お前たちもですよ。白馬、お前もです」
「はいはい。分かりましたよ。天竺まで着いていくんだから、おれたちほどの孝行息子はいないですよ」
「あにきたちや俺を捕まえて子どもとは、やはりお師匠様にゃかないませんね」

 三蔵の言うことを理解できたのか分からない調子で、他の弟子たちは答える。しかし、その表情を見るに、弟子たちが照れているらしいのが三蔵には見てとれた。

「……さあ、行きましょう。日があるうちに峠を越えないと」

 三蔵もなにやら恥ずかしくなり、誤魔化すように白馬に登った。弟子たちはいつもなら馬の前後に分かれて進むのに、前方に固まって何やら嬉しそうにこそこそと話をしている。三蔵は一層恥ずかしく思いながらも、ため息をついた。

「冷暖自知。自分がその立場にならないと分からないものだと言いますが――」

 三蔵自身も弟子であったし、以前にも弟子を持っていた。たくさんの僧たちを見てきた。それなのに、今更唐から離れたこの地で、上仙や天界を追われた者たちを弟子にとってようやく気づくことになろうとは。釈迦如来のように如実知見とはいかないものだ。と、自分の修行が足りないことを三蔵は悟り、道は遠いと思わずにはいられなかった。

「お前たちのような弟子を持たねば、果たして師というものがこのような気持ちになるものだとは知らなかった。どうか無事に天竺まで到達して取経を果たした暁には、弟子たちの罪が許されますように。その為に師として出来ることは何でもしなくては」

 馬上では三蔵を励ますような涼風が吹く。それは遠く天竺まで届き、釈迦如来が微笑んだことを三蔵は知る由もなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 ぼんやり考えごとをしているらしいお師匠さんを背に、おとうと弟子はいつもの調子でくだらないことを言い始めた。

「お師匠さんがおとうさんなら、おれたちのおっかさんは観音菩薩かね?」

 八戒の言葉に、俺と悟浄は思わず吹き出す。
 どんな頭をしていたら、そんなことを思いつくのだろう。しかし、それが親というものが当たり前にある者の考えなのかもしれない。

「……俺はあんな癇癪持ちのおばさんはごめんだね。なら、俺はお師匠さんに母君も兼ねてもらうさ」
「だって、面倒があったり困った時には、おれたちは飴を取られた子どものように観音様に泣きついてるだろう?」
「おいおい、この頭の緊箍児を忘れてもらっちゃ困るぜ。救済菩薩と言えど、大事な可愛い子につけるもんじゃないぞ」
「時には厳しいことも必要だ。ことわざにも『慈母に敗子有り』とというからな」
「可愛い子ほど、ってやつか? しかしいくらおれたちが悪たれで、叩き直すにしたってさ。『鬼手仏心』と言えど、どうせなら手も仏の方がいいな」
「ちがいねえや」

 観音菩薩を話の種に、おとうとたちとげらげら笑う。
 ひとしきり笑ったところで、俺はしみじみと思った。

「まあ、緊箍児は煩わしいが、仕方ない。これが無かったら旅の始めのうちに、うっかりお師匠さんをぶっ殺していたかもしれないからな」
「あにきは気が短いからなあ。天界で大暴れしてた頃よかましだけどさ」
「あの三毒のお説教をいやほど浴びれば、誰だって学ぶさ。しかし、唐を出たばかりの頃は、お師匠さんだってだいぶ気が短かったんだ。今こうやっていられるのは加護のおかげさ」
「あんなに怖がりなのに、本当に怖いもの知らずだよなあ。そこら辺の妖怪よりもあにきの方がずっと怖いのにさ……」
「それなのに、あにきたちや俺に、自分の子どもみたいなものだなんて……」

 お師匠さんは弱いが、意思だけは強い。決めたことは絶対に守る。どこぞで神仏に誓ったことを、意地を通して旅の中でも守り続ける。言葉で誓うのは容易いが、守るのは難しい。しかしお師匠さんがそれをこなすのを俺たちは目にしてきている。
 俺たちを子どもだと言葉にするのなら、意地でもその言葉を守るだろう。

「……護ってさしあげねばなあ」
「そうだなあ……」
「人は、弱いからなあ……」

 そうだそうだ、とおとうと達が頷く。
 言葉と同じく、殺すのは容易いが、護るのは難しい。ひとりでいれば、自分だけを守ればいい。ただ強い自分でさえいれば、達成するのは簡単だった。しかし、今はか弱いお師匠様やおとうと達がいる。同じ故郷の出でもなく、同じ猿でもない奴らだというのに、業を共にしている。
 もし、昔の俺が自分よりも力の弱く年も若い同類でもないものに父親だなんて言われたら、ぺしゃんこにしていただろう。
 しかし、お師匠さんに子どものようなものだと言われた時の、恥ずかしいようなもどかしい気持ちと言ったら!

「さあ、お師匠さん、急がないと日が暮れる前に峠なんて越えられませんよ」

 照れを隠して手綱を取ると、白馬が嘶く。白馬も同じ思いなのだろう。その首を撫でてやり、俺は道を進む足を早めた。