雨が、地に流れた血を洗い流していく。体を芯から冷たくする。
湿った『ジーンズ』が重い。
これでよかったのか。いや、よかったのだ。自由意志により神の御元から堕ちた彼らを、自由意志により神の御心の通りとなるよう選んだ人間の私が打ち倒したのだ。これで、人間は、神から与えられた自由意志によってサタンの甘言を受け入れ、エデンの園の木から善悪の知識を得てしまったが、その知識が故に御心に叶う『善』を選ぶことが出来るのだと証明出来る。
セムヤザの肉体が雨水の中に沈んでいくのをじっと見つめていると、不意に拍手と賞賛の声が投げかけられた。
「おめでとう、イーノック。これまで何千万と繰り返して来た中で、初めての快挙だ」
声がした方向を振り返ると、いつの間にいたのか、『傘』をさしたルシフェルがいた。
その背の後ろに轟音を立てて巨大な『手』が登ってくる。遠い遠いいつか、地に降りてきた時に乗ってきた堕天使達の檻。
今はその檻の空は埋まり、開くことはない。
「じゃあ……話をしようか」
堕天使たちの檻が上へ上へと動き出す。暗闇の中で、強まる雨足が容赦なく戦いで流した血と汗の全てを流していく。
激しい雨は止む気配がない。まだ、天にこの報せは届いていないのか。
不審に思いながらもただただ頭上から注がれる水に浸っていると、声にならない泣き声が響き始めた。寄る辺のない子のような切なくなる声に思わず顔をしかめる。その泣き声はだんだんと悲鳴めいてきて、最後には赤ん坊のようになった。
ルシフェルは私の表情を見逃さなかったようで、少し笑って言った。
「ああ、この声かい?君が捕まえた堕天使たちの声だよ」
どういうことだ。彼らは――
声を上げようとするが、その泣き声と、天が裂けて地上へ流れ込む水の音でかき消される。どういう原理か、ルシフェルの淡々とした声だけは、晦冥に一条照り差す星の光のようにはっきりと分かる。
どうして、水はやまないのか。なぜ、地は水に満たされていくのか。
ルシフェルはしきりに『携帯電話』を耳に当てたり、手の中で撫ぜたりしていたが、ついにふっと笑うと、わざとらしい仕草で雨水の溜まっている地面に落とした。その表面にはひびが入り、チカチカとしばらくは点滅したがすぐに光らなくなった。
「着信拒否、か。『彼』は本当にリセットするつもりなのか」
ルシフェルが始終大切そうに触れていた、我らが神とルシフェルを結び、神と私とを結ぶもの。それをそんなぞんざいに扱う姿はらしくなかった。
拾おうとする俺をルシフェルはもういらないからと制し、御手の外へ蹴り飛ばした。
なぜだか、彼がいつも以上に投げやりになっている。それを問うと、ルシフェルは薄い唇を更につらせた。
「なあに、シンプルなことさ。世界がもう終わるんだから」
ここまで土砂降りだと、これももうさしていても無駄かな。
そう言って、ルシフェルは『傘』をも投げ捨てる。それは滑るように下へ溢れ落ちていいった。
世界が、終わる?
「そう。本当に本当の最初からやり直すだけだよ。アルファからオメガへ。全ては羊水の混沌に還り、万物は終末を超えて新しく始まりを迎える――君を新しい神に据えてね」
我らの神が、神が、私を、俺が――?
ルシフェルの言葉が頭に入ってこない。冗談にしても笑えないし、謎かけにしても意味が分からない。
世界が終わる?洪水計画の中止は?私が神に請い願った人間の存続は?
「お前は本当に私の話を聞かないな。ところで、旅の前に読まされたラジエル書は覚えているか?」
ルシフェルはいつものように、嗜めるような言い方で言う。
ラジエル書。宇宙創造からの神秘を解き明かす書。それが今なんだと言うのだろうか。
「あれがなんのために君に与えられたかが分かる時が来たのさ」
なぜ、水は、止まらないのか――?
今一番知りたい答えは、あの長い長い全知であるはずの書には書かれていななかった。
水は、人間の命を、生活と文化を、歴史を。全てをすでにその腹中へ迎え入れ、今は地さえも飲み込もうとしている。遠目に燃える巨大な火のネフィリムが雨の中に沈んでいくのが見える。暗い世界の水平線に光るその赤い光が、まるで夕暮れのように光っていた。
「巨人族と死せる神と世界。まるで神々の黄昏、というやつだな」
堕天使との戦いの中で何度も私を死に導いたその大きな火柱も、混濁した雨水に飲まれ、やがて沈み、地上には何も見えなくなった。堕天使たちの鳴き声はいつの間にか聞こえなくなっている。
全てが、水の中にあった。
「洪水なんて、『彼』もソフトな言い回しをしたものだ。なあ、イーノック。この光景について、ラジエル書を書き写した書記官として何か言うことはないか?」
もう一度、その水平線に何か『希望』はないものかと探すが、見つからない。
ラジエル書によれば、水から生き残るには、人間はすべての命を乗せた船を作らなければならなかった。しかしそのようなものは、私が見て来たこの世界にはどこにもなかった。神の慈悲――命を繋ぐ方舟は――
「何かに似てないか、と尋ねたつもりだったんだが。まあいい」
相変わらず、お前は話を聞かないな。
ルシフェルはいつもと同じセリフをいつもの調子で言った。
「天が裂け、かつて上と下に分けられた水がひとつになろうとしている。創世では『上と下に水が分かれ、昼と夜がある』だったか?」
暗くなっていく地平線からルシフェルを振り返る。呆れたような、哀れむような顔がそこにあった。
「天地創造の箇所だよ。今から、天はなくなり、水はひとつになり、光もなくなる。お前はケテルを頭に戴き、命の樹の実にさえも至る。問題ないさ。お前は神として、人間の未来にとって最良の選択をすればいい」
私が神に、なれるはずがない。問題がないなんて、そんなことはありえない。なら、私はこれから誰にすがれば――
「じゃあ、イーノック。またな」
ルシフェル、待ってくれ――
ルシフェルがその左手を上げる。
パシッと空気を摩る音が響き、黒い大天使は姿を消し、どれほど待っても現れることはなかった。
ルシフェルの言うように太陽も月もなくなった四十日四十夜、地上で流す事の出来なかった涙をすべて零すように、『手』の上でさめざめと泣いた。
そのうち、涙が出なくなる頃には天の水も尽きて、雨はついに止んだ。天がなくなったことで、上に向かっていた御手も止まった。地上があった方向を見ると、水がひとつになり、原始の混沌が渦巻いていた。
『地上で動いていた肉なるものはすべて、鳥も家畜も獣も地に群がり這うものも人も、ことごとく息絶えた。乾いた地のすべてのもののうち、その鼻に命の息と霊のあるものはことごとく死んだ。地の面にいた生き物はすべて、人をはじめ、家畜、這うもの、空の鳥に至るまでぬぐい去られた。彼らは大地からぬぐい去られ、』
――私と、私と共に御手にいた堕天使たちの魂だけが残った。
ルシフェルは人間にとって最良の選択をしろと言ったが、しかし、ここからどうやって人間にとって最良の未来が作られようか。もう人間はいないと言うのに。
私には、何もない。私の全ては、神によって作られ、与えられて生きてきた。そして、その賜物を全て捧げ、人類のために戦った。それは、正しい行いだったはずなのに。全人類が救われるはずだったのに。
人類の存続、という点ではその選択は誤りであり、堕天使たちの選択こそが正しかっただろうか。
私は『エノク』の名前の通り、神に従うために生まれた。生まれた時から決められていたこととはいえ、自由意志により神の御心に従ったと言うのに。
しかし、私は自分の身を持っては、何も知らない。例えば、サリエルのような他者と共有する愛情や性愛、エゼキエルのような父母としての愛を。人類の祖の原罪によって知識として持っていても、神に背くほどの愛を私は経験したことがない。私のうちにある全ての善いものは、もとは神から与えられたものであり、自分のうちから涌き出でたものではなかった。生れ出た時から負われ、胎を出た時から運ばれた私は、御手によりて彼らのように道を踏み外すこともなく生きてきた。導かれることは出来ても、導くことなど……
なぜ、私だったのだろうか。アザゼルは人の中に進化を見出し、それに惹かれて堕天したが、彼には私はどのように見えたのだろう。
地上には私よりもっとふさわしい人間だっていた。盲目だが聡明なナンナは、暗く何も見えない夜を導く月のように、人間を導いた事だろう。
たとえ堕天使であろうとも。サリエルなら人を愛することを――
そう考えがよぎった刹那、『御手』の檻がひとりでに開く音がした。
なぜ、彼らが自分と一緒にこの世界に残されたのか。その理由は。
――そしてアザゼルは愛するものを守るために進化を。
また、ひとつ檻の開く音がした。
――エゼキエルは進化に伴う犠牲となる自然や弱い者への愛を。
心の中で堕天したちの名前をあげるごとに、檻が開かれていく。
――これらのバランスを保つように、ミカエル、ラファエル、ウリエル、ガブリエルをつけよう。
鳥の羽ばたきに上を見ると、四羽の鳥が円陣を描きながら、舞い降りてくる。
祝福の光景に、創世の言葉が口をついて出てくる。口を開いて久しぶりに出した声は、ひどくたどたどしく臆病なものだった。
「光あれ」
すると、光が出来た。暗い夜の終わりを知らせる星のように明るく輝くその光は、薄く笑うとすぐ隣に降りてきた。
「……お前は本当に話を聞かないな。まずは私を呼ぶべきだろう?」