近侍日記: 送古迎新1 - 1/2

幽かに、花の香りがした。

瞼の向こう、緩やかに周囲が明るくなっていくのが分かる。降ろされた、らしい。
凛とした清廉な空気を深く吸って、短く吐く。
すると、徐々に自分の『身体』の感覚がすみずみへ広がっていく。人の肉というものは不思議なものだ。無意識でもこうやって重力に逆らって立っていられるものなのだなとしみじみ思う。
目を開けると、真白い砂の敷き詰められた殺風景な部屋の中、頭から被った頭巾越しに、俺の『主』となる審神者が嬉しそうに目を見開いたが見えた。審神者、という役目についているというのに、何の力も感じない。思うに、『成りたて』なのだろう。
俺が一振り目か。
嬉しくはあるが、同じだけ落胆する。
ふん、どうせ俺が写しと知ればすぐに興味をなくすに違いない。いくら傑作であろうと。いや、秀でていればいるだけ。人間は俺とともに在らない【山姥切】の方に想いを馳せる。そうではなくとも、名剣名刀はこの世に多くあるのだ。
薄暗い奇妙な愉悦を噛み締めながら自分が何なのか教えようすると、その審神者が俺は山姥切国広かと問いてくる。
そうか。審神者とはみきわめるもの、だったな。力はなくとも、知識はあるのだろうか。

「山姥切国広だ」

答え合わせのように名乗る。が、俺を山姥切国広とみきわめ、写しだと知りながらその反応はどうしたことだろう。

「……何だその目は。写しだというのが気になると?」

不審に思い、審神者のその顔をじっと観察する。しかし、その表情には侮蔑も好奇心も抱いていないようだ。漠然とした不安が湧き上がる。
審神者は俺の視線に気がついたようで、慌てたように取り繕った。そして、これからよろしく頼むと言った。とはいえ、初めての邂逅というには何かを懐かしむような、異常に好意のこもった瞳をしている。
予想していなかった態度に俺は少したじろいだ。
いや、人間には色々な人間がいるのだ。好事家なのかもしれない。
審神者の本意をもう一度探ろうとするが、黙った俺と審神者の間に黒い管狐が割り入ってくる。

「それでは、本丸に移動していただきます。ご準備はよろしいでしょうか?」

管狐の言葉に審神者は強く頷いた。
本丸に移動?ここがこの審神者の本丸ではないのか?

「……おい、ここはあんたの本丸じゃないのか」

歩き出そうとする背に思わず尋ねれば、振り向いた審神者は妙な表情を浮かべていた。
口を開きかけた審神者を遮って、俺の声が聞こえたらしい管狐がこちらに振り向き説明を始める。

「あなたの主である審神者様に定められた本丸では、刀剣男士を顕現させることができません。その為、一時的にこちらで顕現することになったのです」
「ふうん?」

そういうこともあるのだろうか。
審神者は俺には申し訳ない限りだが、普通の本丸での様なことはしばらくはできないと謝った。
管狐は審神者に向かってひどく申し訳なさそうに耳を垂らした。その姿を認めたらしい審神者は、管狐に向き直って気にするなと妙にはっきりした声で言う。
覚悟はしていた、と。
俺はこれから覚悟を決めなくてはならない、普通ではない場所へ行くのか。一人だけ何も分からない居心地の悪さに深く被った布の下、腰に下げた自分の柄をぎゅっと握る。
俺の顔は強張っていたらしい。
いつの間にか審神者が申し訳そうに俺を見つめている。その視線に沿って管狐もつられてこちらを見、慌てて説明を始めた。
俺も本丸に行く当事者であるから十分な説明を、と責任を感じているらしいのがその真摯な様子から窺い知れる。

「審神者様がその『主』に、と選ばれた本丸は……以前の主が心を乱すなどで尋常じみた穢れが溜まっている場所のハテにあるのです。その為、本丸が本丸として機能していません。ごくごく基本的な部分も機能出来ていない状態の本丸を引き渡すのは、こちらとしても忍びないのですが、戦力というものに予備はないのです」

歴史修正者に見つからずに色々な時代に飛ぶためにも支障はないという本丸の空間は有限で、この幾星霜も続く戦いの歴史の中では本丸空間はよく引き継ぎが起こる。次に引き継ぐ審神者が希望すれば、刀剣男士ごと引き継ぐことも出来る。中には本丸の空間を複合させて引き継ぐ場合もある。と、審神者はとつとつと情報を補足した。
俺が遥か昔にこの戦いに身を置くことの約束を『政府』と呼ばれるものと結んだ時から、状況が変わっているらしい。
俺は、俺だ。本霊から分けて降ろされた――言わば写された俺自身を、俺は分霊とは思わない。ならば、【山姥切国広】に影響は少ないだろう。なら、こう言ったことを知らないというのも頷ける。

「本来ならば、引き継ぐとは言えども、私どもで初期状態にしてからお渡しするものなのです。そう。処置をしてお渡しするものなのです。しかし……その、そのままに――」

管狐が言い淀む。
管狐と審神者が目を合わせる。言うか言わないかの問答をしているようにも見えた。
嫌な雰囲気だが、審神者は俺に情報を与えようとしているらしい。ようやっと、管狐が口を開く。

「その本丸には――ご協力して頂いている刀剣の方々にはまことに申し訳ない事実なのですが、以前の審神者はの中には刀剣男士に口にするのも憚れるようなこと、いえ、そうですね。人の言葉で言うところの虐待、をしていた者もいるのです。その穢れを受けた刀剣は、本霊に戻ることができていません。祀り棄てられた状態でいるのです」

驚き、目を見張る。管狐はふいと俺から瞳を逸らした。

「そのせいで、その本丸では、なんと言い表すべきか、おかしなことがたくさん起こるのです。政府としても、何度か調査と解決を図ったのですが……」

言葉はそこで途切れる。政府といえど、恐らくは何も出来なかったのだろう。
政府も事が判じるまで、介入できなかったのか。そして、その本丸にこの力のまるでない審神者を送るつもりでいるのか。主人の立場にいる審神者を悪く言っているつもりはない。ただ、無謀と勇気は違う。政府がそんな蛮勇を犯すほど、この戦争は逼迫しているのか?
頭の奥が冷たくなっていく感覚。これが血の気が引く、という言葉の表す状態だろうか。

「……刀は、持ち主を選べないからな。起こったことに対して、どうして、などとは刀として問わない」

乾いた口でそうもごもごと伝えると、管狐は少し安堵した様子を見せた。
いや、違う。戦況の悪化などではない。別の理由が何かある。しかし、それが何かは分からない。
管狐を詰めるのをやめて、審神者の方に向き直る。

「だが何故あんたなんだ?あんたはまだ、成りたて、だろう。拒否権はないのか?どうしてだ?」

問い詰めると、
神宣が降りたから自分が選ばれた。
と審神者が首を振ってはっきり答えた。
何の神による託宣なのか。『政府』の管狐と審神者とはいえ、胡散臭さがある。

「審神者様のおっしゃる通りです。政府としても、この本丸の在り方をどうにかしなくてはなりません。そこで、一番相応しい審神者を選び出すことにしたのです」

審神者をいぶかしむ俺に管狐が助け舟を出した。しかし、管狐と審神者は何か嘘を言っているような様子はないように感じる。よく分からない。
一方で、なるほどとも思う。だから先ほどから『定められた』とか『選ばれた』という言葉が使われていたようだ。

「とは言え、前任者から供給されていた力も既に尽き、審神者様が審神者として男士を顕現させる力がまだ希薄な故、その本丸に残されている刀剣たちは人の姿を保つことはおろか動くこともできないでしょう。審神者様が本丸に定まれば穢れも禊がれるはずです。政府としては、助力は惜しまないつもりです。本丸を立て直す期間の基本的な物資の供給はお約束します」

責任感を見せようとするきりりとヒゲを立たせた管狐からはこれ以上何かを聞き出せそうにはない。

「……わかった」

矛盾を飲み込んで、退く。どうせ本丸に行けば、自ずと分かるだろう。
その穢れを受けた刀剣とやらが現し身を持っていないのであれば練度の低い俺でもどうにでもなる。『政府』が助力は惜しまないと言うのだ。折れれば、また俺じゃない他の名剣名刀を顕現させればいい。
すると、審神者が何か思いついたように管狐の方を向き、刀装をここで作っていくことは可能かと尋ねた。

「そ、そうですね。刀装を作る機能も止まっています。こちらで作成される方がよろしいかと思います」

では、と部屋続きの刀装部屋らしき場所に通される。また白い砂の敷かれた部屋で、神棚とそこに備えられた宝珠と資材以外には何もない。
すぐさま審神者が資材の分量を細かく指定してきた。曰く、効率の良い配分があるらしい。初耳だが、従わない理由はない。刀装兵は俺たちに従属する。だから、審神者の力の及ぶ下で俺たちが作成せねばならない。
イメージに形を与え、宝珠に定着させる。

「そら、これでいいだろ?」

出来上がったものを横で見ていた審神者に手渡す。
ありがとうとそれを受け取るものの、まだ足りないと言う。管狐は審神者のやり方に対して何の文句もないらしく、むしろ微かに微笑みながら退室していった。
それを笑顔で見送った後、審神者は心配してくれてありがとうと小さな声でつぶやいた。
刀装を作成しながら、なんのことだと記憶を辿る。思い当たったのは、拒否しないのかというという問いかけだった。それを、心配とこの審神者は受け止めたらしい。

「……別に心配していたわけじゃない。そんな伏魔殿にあんたのようなやつがいく必要はないと思っただけだ」

ずさんな官吏によって悪鬼羅刹が解き放たれた話を持ってくるなんて、と審神者は笑って見せた。
――確かに今の発言は『政府』を揶揄する失言だった。が、審神者は気にしていない様子だ。審神者自身にも思うところがあるようだ。
ただ、ひとしきり笑った後に笑みを消しつつ、そんな伏魔殿に伴する役目に選ばれたのは山姥切国広も同じじゃないかと言った。
出来上がった刀装を次々に手渡しながら、何を言っているんだこいつはと俺は呆れた。
刀は主人を見極めることや主人と認めて助力することは出来る。しかし主人が誰であるかや主人が自分を使って何を行うのかは選べない。認めることと従うことは別だ。選ばれたのなら、従う。それだけだ。他の刀剣の胸中など知らないが、俺はそこに恐怖など無い。
俺が黙っていると、審神者はひどく上機嫌になった。俺が何を言いたいのかが何となく分かったらしい。
だが、と俺はそこで釘を刺す。

「俺は神刀ではないからな。山姥……化物退治は俺の仕事じゃない。化物切りの刀そのものならともかく。写しに霊力を期待してどうするんだ?」

勝手に俺に期待するな。そして失望するな。この審神者が俺の来歴やらの何を知っているのかは知らないが、人間側の一人相撲で俺の価値を勝手に決め付けるのは許せない。
審神者はというと、俺の予想した反応とは違い、俺の言葉に目を輝かせた。いまの言葉のどこにこの審神者を喜ばすことがあったのだろう。
……何だかやりにくい人間だ。
ちょうど作っていた刀装が出来上がると、審神者はもう十分だよと言って管狐を呼びに行く。

「今度こそ、ご準備は整いましたでしょうか?」

管狐の声に審神者が明るく肯定し、山姥切国広と俺の名前を呼んだ。

「では、こちらへ」

管狐に呼ばれるままに真白い部屋を出ると、中庭のような場所に出る。四方を壁と家屋に四角く切り取られた空の下、赤い鳥居が陽に照らされて艶々と光っている。踏み石から降りると、空間移動のからくりに黒い毛並みが走っていくのが見えた。
行こうか、と審神者が俺の横に並ぶ。その目には俺に対する確固とした信頼のようなものが見て取れる。何がこの審神者を信用させているのだろう。過ぎた信頼はある意味では不気味だ。

「何を期待しているのやら」

審神者は、何かを答えたようなのだが、空間を移動する光の中にとろけて俺の耳には届かなかった。