見られてしまった失態を誤魔化すように小さく咳払う。すると、ねぇちゃんはすっと背筋を伸ばした。その態度が何か大人からの言葉を待つ子どものようで、彼女特有の幼さ素直さをつくづくと感じる。
彼女は、深く考えることが苦手だ。
誰かを憎んだり疑うことを知らない。正確に言えば、知らなかった、そう言っても良いはずだったのだが。祓い手にとって、央魔のヒナの情緒的欠落は、央魔を純血の冥使から見分ける一つの手段だった。彼女の冥使的な側面である影がどうやって彼女から分離したのかははっきり分からない。央魔はレアだ。まだその人間的な側面がどうやって影に打ち勝つかの事例も多くを得ている訳でもない。
実在としての影の分離は、”村”に集められたの情報の中でも極めて異例中の異例だ。そして彼女の影との決着。彼女が影を屈服させたと思われる場所や彼女の衣服には、泥のようなものが付着していた。決着というよりは融合。央魔となった彼女を観察するにまるで劣勢性質が勝ったというよりは優勢性質と折り合いをつけて共にある、というようだった。
「俺、明日から”村”から出かけることになってるんだけど」
ぴくん、ねぇちゃんが反応した。
「何かあったの……?」
「心配しないで、まあちょっとした調べものがあるだけだから」
そんな顔しないでよ、ねぇちゃん。不安そうな色に変わった彼女の表情に、後ろ髪が引かれる。それでも、すぐにそんな感情は引っ込んだ。
あどけなさの見える彼女に、冷徹さが見え隠れする。冥使たちの全てに基本的に無関心だという性質が。そう、それこそが俺がねぇちゃんという央魔に抱く疑問だった。もともとの性格が抜けているだけかもしれないが、ねぇちゃんは影と決着をつける前の『抜け』の色が酷く垣間見られる。そして不安定に出現する影。二つに分かたれた性質が統合したのに、レナは……?
「フレディ、手を貸して」
ふと、ねぇちゃんが俺の手を取った。すこしだけ体温の低い掌上に指先が置かれる。周りの音が全て遠退いた気がして、とくんとくんと音を響かせる自分の心臓がうるさかった。
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祓い手たちから解放されると、私はすぐに高い塔の部屋に足を向けた。ぐるりと壁に沿うように続く階段の小さな窓から、涼しい風が吹き込み、月が”村”を囲むようにそびえる木々の向こうに鎮座していた。
力がいつもよりか細くなり、まるで『人間』のようだと思う。祓い手の集う”村”はそれ自体が大きな結界のようなものだ。ここでは冥使の力も少しだけ弱まる。この感覚は実に久しぶりだった。全ての時間に置き去られた私が、もう来ないし来れないだろうと考えていた場所。
私の懐かしい”村”はとうに時間の向こう側に滑り落ちてはいたが、この中にいると、彼と共にあった時のように私は人間に戻ることが出来た。
フレデリック。どんなに時が経とうとも忘れることの無い名前。彼の名前と血が受け継がれるこの場所は、実に私たちの故郷でもあった。
白い羊膜に包まれて生まれてきた祝福に満ちた彼と、赤い羊膜を貼り付けて生まれてきた呪われた私。相対する者同士でありながら、人間離れした力を持っていた私を理解していた彼だからこそ私は隣に立って、人間の側に寄り添えたのだった。人間でいられたのだった。ある日突然に自分がバケモノだと気づいた私であっても。彼も人間として生きたがっていた。
それでも、吹き込む風が足元のランプを吹き消しても夜目の効くのを考えると自分は人間っはないのだ。
彼のマガイモノの待つ部屋に階段を登って行くと、幼く聞こえるマガイモノの声が、塔の上から降って来た。
「彼の行く手に茜と山査子の棘があらんことを」
あの小さなフレデリックと共に居るのだろうか。懐かしいその祈りに、私は遠い彼の声の響きを感じた。彼の行く手に茜と山査子の棘があらんことを。かつて白い衣を纏う彼が、赤を纏う私を祈ってくれた時のように。
彼の再来だと謳われる小さなフレデリックと央魔として彼のマガイモノとして造られたレナ。白い羊膜を纏う者と赤い羊膜を無理やり纏わされた者。其れは相容れぬものであり、溶け合わぬもの。
この幼く脆い者たちは、彼と私が見ることが出来なかったものを見ることがでくるのだろうか。ふいにそう思った。