眩しさが周りに滲んで無くなる。
審神者と俺で立っているのは、堀で囲まれた館の門の前だった。肌寒く、息が白く揺らぐ。
恐らくはまだ日が登ったばかりであろう。早天の陽に照らされた漆喰の高い塀から竹林やら剪定の入っていない松の枝が覗いている。水堀は濁りに濁っていて、悪いものの住処になっているようだった。見つめていたら、いつかナニかの首が上ってくるのではないかと思わせる。時折、ごぼっと何かが音を立てているのが薄気味悪い。
審神者が戸を推せば、軋んだ音が鳴る。
審神者は腕っ節も弱いらしい。苦労している背を手伝ってやると、やっと門は俺たちを中へ通した。
「……嫌な空気だな」
中はむせ返るような瘴気に満ち満ちている。
本丸は、城というよりかは家老や大名が住むような武家屋敷のような趣だ。その至るところの薄暗がりから、何か薄暗いものの気配や視線を感じる。
音に聞く『稲生物怪録』の妖怪屋敷は、きっとこの様な姿をしていたに違いない。
「気をつけろ」
声をかけるが、審神者に危機感は感じられない。あろう事か、審神者はそのまま敷居を越えて道づたいに大きな樹に挟まれた母屋らしき家屋に近づいていく。躊躇いは一切感じられない。
まさか。
力がない、ない、とは思っていたが。天眼通ならまだしも、眼すらかよっていないのか。この異常さが分からないのか。
俺は静かに抜刀し、周りを警戒しながら審神者より先んじて玄関の式台の奥へと聞き耳を立てた。何も聞こえないが、ぬらりとした生臭い匂いが風もないのに鼻に届く。
ああ、この匂いは知っている。
奥への目隠しとなっている煤けた破れ屏風の裏をのぞけば、錆で刃こぼれた大太刀が敷板に深く深く突き刺さっていた。この大太刀の周りだけ少し空気が軽い。所謂、御神刀の類だろう。ならば、この刀は何かのためにここに自らを突き立てたに違いない。往時は白かったであろう柄は、ボロボロになっている。手入れをする者も、力を高める者もいないとなると、こうもなるのかと審神者を失った行く末をわびしく思った。
審神者はただいま、と誰もいない玄関に声をかけて履物を脱いで上に上がってくる。俺は土足で上に上がったことに気がつき、それに習って靴を脱いだ。床板や畳には汚れが溜まっている。土足で立ち入っても仕方はないとは思うが……
「この大太刀は、絶対にここから抜くな」
いいな、と審神者に釘をさす。審神者は黙ってうなずいた後、興味深そうに玄関に刺さった大太刀をまじまじ眺めた。
緩んだ畳の敷かれた玄関の間に上がって奥を伺うものの、ものの気はあるが人の気はない。
間違いなく、この審神者にはまだ俺以外の顕現を保つ技量がない。この屋敷に顕現していた刀剣は手入れをされてもしばらくは人の姿にもなれないだろう。それまでに、管狐の言っていたようにこの屋敷をこの審神者が治めればいいのだろう?
ふん、と分かったように鼻を鳴らして抜いた刀を鞘に収めようとする。
その途端、
ばちり
と頭の上で何かが弾ける音がした。反射的に審神者をかばって体を沈める。
審神者は電気は通っているようだけれど、ちょうど電球が切れたみたいだと俺の下でのんびりと言った。この分じゃ、他の照明も替えないと使えないと。
上を見上げると、埃をかぶった裸電球がぶら下がっている。
……俺は気を張っているのがバカらしくなった。
「それで、どうするんだ?」
管狐は審神者が本丸に定まれば、とは言っていたが、具体的に何をすればいいかは聞いていなかった。
審神者は少し考えたそぶりを見せた後、屋敷の中を見てまわるついでに空気が悪いから窓を開けようかと言った。
俺はそういうつもりで聞いたのではなかったのだがな。審神者の物腰に毒気を抜かれているばかりのような気がする。
審神者は右に行くか左に行くかで少し迷った後、まずは左手の戸を開けた。
そこは中の口らしく、奥に土間に降りる場所があり、何十人分の飯も作れそうな広い厨棟に繋がってある。足元の板張りは右奥へ続き、囲炉裏の間も見える。どこも埃にまみれていて薄暗い。審神者はどうにかして明かりを取ろうと、突き上げ窓を片端から開いていった。
徐々に明るさと空気が入ってきたその空間は、この本丸の見た目通りに古臭い作りをしているが、置いてあるものの中にはなかなか目新しいものがある。審神者はデンカセイヒンが使えると言って喜んだ。
――確かに、人が住んでいたのだ。
それでも、時折柱などに刀の疵があるのが嫌でも目につく。誰かが、この厨という人間の『日常空間』で争った跡だ。
そう。刀剣を虐げていたという人間が住んでいたのだ。淀みの中に誰かの生活が見えるのは気分が悪かった。
それでも、審神者が部屋に入って動いたために、中の嫌な空気が撹拌されて瘴気の濃度はやや薄まっていた。審神者が動けば、闇の中でじっとしていた生き物たちが逃げ蠢き、嫌なものの少ない何もない空間が広がっていく。『人がいない家は駄目になる』と誰かが言ったが、こういうことなのだろう。人がいれば、日々、何かが変化していく。その変化が良いものであれ悪いものであれ、だ。
しかし、どうにもならないものが確かにあるのだと俺は知っていた。
囲炉裏の奥へと進もうとする審神者を諌めて立ち止まらせる。
「おそらく、こちら側が厨ということは、反対側は座敷があるはずだ。まずは落ち着ける部屋を探したほうがいいんじゃないか?」
反対側を見に行こう、と先ほどの玄関の方に審神者を追いやる。審神者は何事かと目を瞬きながらも、俺の言葉を聞けばなるほどと素直に従った。
中の口の反対側の戸を開けると、小さな一間に出る。控えの間らしいそこは違う部屋へ繋がっている。思った通り、表座敷か大広間があるらしい。
次の戸を開けて入ると、広い空間に出た。雨戸が全て閉じらていて、薄暗い。その雨戸の破れているところから外の明かりが漏れているが、奥の方は打刀の俺でもよく見えない。なるほど、数多の刀剣が集まっても息がつまらないようにはなっているらしい。
ようやく部屋の端にたどり着いた審神者は雨戸を上手く外せずに手間取っている。手を貸すと、審神者が暗がりの中でにっこりと笑った。
自分の時代にはこういったものが無かったから、と。そういえば、この審神者はどの時代から来たのだろう。
「…………」
ぎいぎいと雨戸が音を軋ませて、横に滑る。
雨戸をしまう戸袋の闇の中にはナニかがたくさんいたらしく、砂埃の光る陽の中に、蟲のようなものが悲鳴をあげて溶けていった。
また少し空気が軽くなる。
雨戸を開けた先の庭は遠くに丹の剥げた橋と干上がった池があり、茶室や別棟の様なものも見える。敷地は広く、まだまだ奥があるらしい。庭は荒れに荒れているが、整えれば立派なものになるだろう。
明るくなった座敷を見回せば、ところどころに血を拭った跡があった。隅には五、六振りの刀が折り重なって転がっている。打刀か脇差だろうが、そのほとんどがひどく傷んでいて、中には抜き身のままで鞘もなく帽子が割れ落ちているものもある。ひどい有様だ。
これが、以前の審神者によって傷つけられたという刀剣の本体ということだろうか。
こんな入ってすぐの部屋にもガラクタの様に積み上げられているのだから、この広い屋敷にどれだけの刀剣が眠っているのかと思うとゾッとする。しかも、俺よりは確実に練度が高いはずである。
俺は腰に下げた自分を掴み、審神者から渡されている刀装がちゃんとあるか、つい確認する。
審神者はというと、ぼろぼろの刀に最初はひどくうろたえていたものの、その一つ一つを悲しそうに素手で拾い、虫干しをする様に明るいところに並べていった。どれが【どれ】かは見極められなかったようだが、汚れた畳に座って神妙な表情で眺めている。
「おい、あまり触らないほうがいいんじゃないか?」
その背に声をかけると、審神者がこちらを振り向く。
「そいつらは折れてはいない。あんたに顕現させる力がないというのは分かっているが、何があるかは分からないだろ」
それを聞くと、審神者は刀のそばから飛び退いた。一応は政府から審神者についての教育を受けたらしいというのに、どこか自覚が足りないように思われる。
それは、物を見通す力や感じる力がないからか、それともこの審神者の性格なのか……見ていて、危なっかしいことこの上ない。
「俺は少し屋敷の中を見てくるから……いや、あんたには、危ない。しばらくここにいろ」
屋敷を見て回るという言葉に立ち上がりかけた中腰の審神者をもう一度座らせる。
穢れのついたという刀剣とやらは出て来ないとしても、この屋敷は異常だ。
特に玄関の間の奥の方。おそらく、奥座敷がある方向。どこか甘いが、胃の腑を蹴り飛ばしてくるような臭い。遠い昔によく嗅いでいた臭いだ。
「何かあったら大声で叫べ。戦いは避けろ」
そう言って、審神者の居る表座敷と次の間の戸を一つ一つ閉めながら、あの大太刀の刺さっている玄関へと戻る。
右奥は審神者の居る大広間。
左奥は厨。
では、その間は?
鍔に指をかけながら、片手でそろりと襖を開ける。暗闇の中で目をこらすが、俺が想像していたものはまだそこにはなかった。部屋はまだ奥へ奥へと繋がっている。
『本丸』はその奥、この部屋から続く部屋のようだ。意を決して妙に重い戸を無理やり開ける。とその瞬間、何かが倒れた音がし、どろりとした瘴気がその隙間から滲み出てて来た。
やはり、審神者を向こうへ置いてきて正解だった。この瘴気もとんでもないが、部屋の有り様も凄まじい。
部屋の中央の黒い染みを中心に輪を描くように壁と天井に血飛沫の飛んだ跡があった。とてつもない出血量だ。パッと頭の中に、誰かの首筋や腹が裂かれて血や臓物が飛び落ちる姿が浮かぶ。この部屋で、大太刀まわりがあったのだ。血を撒き散らしながら、その誰かはのたうち回ったらしい。血の海を広げながら、這いずるような血痕はまだ奥の部屋へと続いている。
振り返ると、先ほど重いと感じた襖のそばには大ぶりの脇差が転がっていた。これが戸のつっかえになっていたようだ。いや、この脇差の刀剣男士はこの部屋を閉じるために自分の身を捧げたに違いない。
天井の梁には折れた短刀が刺ささり、また残りの二方の襖にはまたそれぞれ戸が開かない様にと抜き身の刀が敷居に突き刺さっている。どちらも、錆に覆われている。俺はそれが時間の経過によるものなのか、この部屋で起こったことによる血錆なのか分からなかった。
それぞれが何かの謂れのある名刀に違いない。玄関の大太刀のように、霊力が尽きるまで身を以て何かを封じていたのだろう。
では何を?
唯一、封がされていない奥の部屋からは何かの液体が漏れて、そこに小蝿の死骸が浮かんでいた。
祭り棄てられた虐げられていた刀剣は本丸にここに残っている。では、その祭り棄てた審神者はどこに?
「…………」
左手で刀鍔の位置を確かめながら、引き手に指をかける。
その瞬間、嫌な気配が背筋を走った。
ああ、あの審神者に俺が折れた時に逃げるように言っておくのを忘れていた。伏魔殿の封を破るのは、政府ではなくこの俺か。
自嘲気味に引き手にかけた右手に力を込める。
が、
「…………む、」
拍子抜けするように、開かない。
何だかコケにされた気分だ。どうせ中からは生きているもの気配はしないのだ。柱に足をかけ、それを軸に力を込めて乱暴に引き開ける。
ずず、と音を立ててようやってその部屋は開いた。白い何かがそこから足元に転がり出で、悪臭が鼻の奥をつく。件の審神者のこうべかと飛び退くが、違う。
半透明の袋。少し開いた襖の先を見れば、奥の部屋はその半透明の袋が山積みになっている。中身は、ごみか何かがつまっているらしい。奥を覗こうとした俺がその袋に手をかけると、ひやりとした感覚が全身を鳥肌立たせた。
手を見やると、何かの液体で濡れた手のひらの上で黄味がかった白の小さな虫が慌ただしく蠢いている。
蛆虫だ。
ぞっとして即座に払い落とす。昔はよく見たものだというのに、人の肉を持って自ら触れるとここまで嫌悪感が湧き上がるものなのか。刀であった時は、と手を這い回った蛆の感触を思い出す。
件の審神者は噉相の頃、ということだろうか。
しかし、死体が出てきたとして、どこへやるべきか。荼毘にに付すか、土へ埋めるか、水に流そうにも表の水路は流れがなかった様にも思える。あののほほんとした審神者に何かを頼めそうにはない。
とりあえず、もう封を破ってしまったからには、後を考えていても仕方ない。この部屋はどうにかせねばなるまい。厨や大広間での審神者に習い、雨戸を開けようと敷居に刺さった刀を抜く。
あ、まずい。
背後に、何かの気配を感じる。振り向いてはならない。実際に見てはいないのに、後ろにいるものが女だということがわかる。その怨嗟を吸って長くなった髪を垂らし、俺を見つめているだろう女。目は血走っているだろうし、その乾いた唇は――
ああ、何かを喋ってしまう。
見てはならない。聞いてはならない。言葉を交わしてはいけない。しかし、動かなければ――
「山姥切国広!」
迷っている数拍の間。長い一瞬の終わりに、遠くで審神者が俺を呼ぶ声がした。
刹那、背後の気配は消え去り、俺がようやっと振り向いた時には、そこには何もいなかった。