冷たい方程式

彼は『ひとり』になりたかった。
周囲の機体がそれを察知できるような様子は見られなかったが、その白いマスクの下の表情は確かに全てへの嫌悪に歪んでいた。積荷スペースには彼以外にも多くの機体が乗っていて、時折何か不満を漏らす声が聞こえていた。そのスペース以外に行くところなどないのだが、彼はひとりになりたかったのである。彼がこの船――アストロトレインのシャトル船内――に乗り込んだ時にはブレインやスパークには微塵も浮かばなかった感情が、その数十メガサイクル後の今、彼を占めていた。その感情が指し示すものは、悲愴と安堵という反する二つのもので、彼がこの数メガサイクル以内に行った行動への評価の試みとエラー結果が反映されたものだった。

敗れて地に伏せる姿、見たことがないほど傷ついた姿、初めて見る弱々しい姿、宇宙の闇の中へ吸い込まれていく姿。
思い出したくない見たくない映像がブレインに浮かび、俺は思わず頭振って物理的に停止させる。
自分が死ぬかもしれない状況に耐えるようにしてきたし、他のものが死ぬことに対しても耐えられるように訓練してきたつもりだった。そして実際に俺は他者をためらいなく殺していたし、身近で死ぬものがあっても動じることはなかったはずだった。
しかし、実際は俺自身やカセットロンが死ぬのは耐えられなかったし、そのために切り捨てたものに対して自分のスパークはひどく動揺していた。

燃料の量hは、質量mのシャトルを安全に目的地に運ぶ推力を与える。燃料の量hは質量m+xのシャトルを安全に目的地に運ぶ推力を与えない。 アストロトレインのエネルギー残量、乗員の総量、セイバートロンまでの残りの距離、物理法則との計算。

そんなことをしなくとも、ビルドロンのようなバカ共でも分かる。「アストロトレインが無理だと判断した。」何かをしなくては全員が死ぬし、誰かを切り捨てなければ自分が死ぬ。
ふと見てしまった窓の外に白いものが見えた気がし、俺はとっさにセンサーをずらした。
すぐにでもどこか身を隠せる場所に行き、ジャガーやコンドルたちとこの途方も無い旅路の絶望を癒したかった。
この数メガサイクルの内に俺は情報参謀という地位を失い、ただのサウンドウェーブに戻ってしまった。俺の生きてきた長い時間の殆どを占めていた戦いには敗北し、その長い長い時を共に過ごしてきた者たちの大半と俺が仕えていた――
また思い出したくないことを思い出し、俺は頭を抱え込んだ。我慢できずに、船前方の狭苦しくて他の機体が腰を下ろして居ない場所に行き、ジャガーをイジェクトする。他の機体が遠目に迷惑そうな顔をして見せたが、気づかないふりをし、その小さな機体を身体に寄せた。
それでも少なくとも、自分自身とこの機体を含めたカセットロンたちは守れた。
悲愴を追いやり、ジャガーの背を撫でることで安堵だけを手に入れようとする。なだらかな曲線を描く身体には、先ほどまでのサイバトロンとの戦いで傷とその後この船内で起こった動乱での傷が刻まれている。俺自身も、コンドルやフレンジーやランブルたちもそうだ。
この船をは予備のリペアパーツやエレルギーなどは搭載されてはいない。誰が頂点かを定める動乱から早々と降伏したのは、自分とカセットロンを守る意味もあった。
俺たちは疲れていて、エネルギー不足だ。

『昔に戻ったみたいだ』

そう腕の中でジャガーが囁く。

『しかし、あの時ほどの可能性はもうないな』

俺はその背をもう一度撫でることで同意を示した。
これからスタースクリームを中心に軍団が組まれるのだろうが、セイバートロンにはあいつが残っているからには、軍団は二つに裂けるだろう。自分の生存のためにあの方を投げ捨てた俺をあいつは、レーザーウェーブは絶対に許さないだろう。セイバートロンに着いたところで、最初は迎え入られるとしても結局は混乱の内にーー
あの方はよくレーザーウェーブを褒めていたが、まさにその言葉の通りだった。
それに加え、セイバートロンのエネルギーはほぼ枯渇している。サイバトロンの精鋭部隊とそれを追いかけていた俺たち遠征に出ていた者たちが居たことで消費者が減り、また再連携の後にはスペースブリッジによってもたらされたエネルギーでやっともっていたような星だ。地球からの供給もなくなり、バランスが崩れるのは時間の問題だ。残っていた者たちはスリープモードに陥っていた俺たちと違い、ずっと起動し続けてあの基地を守っていた。コンボイたちが居ないのだからあとは残党共ではあるが、残されただけはあってウーマンサイバトロンの連中はエリータ1を筆頭に能力は高い。レーザーウェーブ達にとっては、その戦いを知らない俺たちは部外者だ。

『知らないくせに、そう思うだろうな』

お互いにのみ聞こえる声で話す中、ジャガーがそう呟いた。

「向コウも、同ジコトだ。アイツラはコンボイたちとも戦ワナカッタし、コノ船に乗リ合ワセなかった」

知らないくせに。お前らだってあの戦いで敗れてあの方が傷つき地に伏せる姿は見なかったし、あの選択に加わらなかっただろう。知らないくせに。そうドス黒いものが胸の内に渦巻く。
……アストロトレインがあの星に着いたら、船を盗むか、レーザーウェーブのいる司令塔に忍び込んでスペースブリッジから地球に飛ぶ以外に脱出経路がない。どちらも単独で行うには難しいし、あの星を開けてから久しい。情報が足りなさすぎる。
くそ。
しかし、あの方の代理として立てられそうな俺寄りの機体がないわけではない。しかし――
考えが煮詰まってきたところで、思考を切り上げる。ジャガーをこれ以上消耗させるわけにはいけない。
ジャガーをリターンさせると、今度は物理的にはひとりになれたが、また他の機体が世界に踏み込んできた。
胸部のカセット窓に手を当てて、自分の中へ集中を向ける。しかし、エラーで散り散りになった思考とスパークの歪みでいつものように何かに焦点を当てることが出来なかった。
「何にでも」とジャガーは言うが、その可能性にはひとつの条件がある。俺だけでは何も出来ないことがこの世界には多くあるのだ。そう、カセットロンと共にあっても出来ないことが。そういうことを、あの方はひとりでやっていたのだ。しかし、もう失ってしまった。
ひとつの時代が終わった。そう思う。
いつものレーザーウェーブだったら非論理的だと言うだろう。宇宙が織り上げる連綿とした歴史にとってはひとつの網目が傷ついただけだと。しかし、あいつにとって今回ばかりは大きな変動になる。傷ついた糸が切れ、そこから解れ、そこから歴史が裂ける。
デストロンにとって、あの方は太い縦糸であり横糸で、そこに俺たちが集まってまとまっていた。たったひとりによってなる、ある意味で『平等』な布だった。それが二つに裂ければ――
そう、平等ではあったのだ。多数決によってアレは決定され、命は優劣はあれ平等だ。生き残りをかけた時は、適者だけが生き残る。至極論理的な理論だ。俺やレーザーウェーブがそれに対して非論理的なものを抱くとしても。

――儂はまだ立派に動けるぞ

その声が、映像が、頭のデータバンクから選ばれ、何度も何度も繰り返し再生される。ロボット生命体という種族は忘却が少ない故に優れているが、それ故に忘れたくともデータがある限りは記憶が残るという精神にとって致命的な欠点がある。
細工すれば良い。そう分かってはいるのだが、今回ばかりは逃げられない。すぐ未来に仕出かしたことの結果が待ち受けている。このままサイバトロンに着かなければいいと思う考えと、この空間から早く抜け出したいという矛盾する考えが俺の頭の中をぐるぐる周回していた。

サバイバルのルール。
そして、物理法則の方程式。

ハッチから追い出した投げ捨てた者たちはまだ、俺のブレインに皆のブレインに残っている。宇宙を生身で漂流することの意味は死だとは分かっている。
誰もが生きたい中、生き残れる者だけが生き残る。

――まだ、立派に――動ける――――

あの方は、メガトロン様は、船外に放り出されなくてはならなかったのか?他の誰かが死ぬべきだったのではないか?
しかし、俺や他の機体がこうして生き残っているのは、サバイバルのルールの結果であり、シンプルな物理法則の帳尻合わせの成功であり、共に生きなくてはいけない『平等』な者たちと生き残る為の手段でもあった。
そんな冷たい方程式たちは満足し、今は静かに次の選択を押し付けながらシャトルを進めている。
アストロトレインもビルドロンもジェットロンも皆、違う星に向かおうとは誰も言い出さない。いつの間にか疲労なのか心的要因なのか、誰もがしゃべらなくなっていた。その沈黙の中、よくあの方が投げかけていた雑言がブレインの中で響く。

愚か者め。まったく、この――

その続きは俺じゃない名前が入っていたはずだったが、何故かそこが欠落したまま響き続けた。
何度も何度も、何度も何度も……