どうしよう…眼鏡がないと、何も見えないのに。世の中には私が眼鏡をかけていようといまいと、目に見えないものが沢山あるけれど。私の大好きな人たちの顔も何もかもぼやけてしまう。
そんなのは、いや。
涙が目から滲んできた。だから、見えないことは私にはとても怖いことだった。
「ここらへんに落ちてないかな…」
願ってみても、むなしい。
黄昏時の道をふらふらと人の家の壁伝いに歩きながら、どこかで落としてしまった眼鏡を探す。こんなに何も見えないのに、さっきはよく走って家まで行けたよな私…。歩く毎にため息が零れる。何となく落とした場所は分かっていてもこの時間の怖い怪談を思い出してしまって、見えないのと相俟ってちっとも足が進もうとしない。
逢魔が時は大禍時とも書けて、昔から『魑魅魍魎が跳梁跋扈する時間』だなんてショウ君は言っていた。だいたいあのショウ君が悪いんだ。でもあの怪談話をしたら、ショウ君が絶対に行きたがるのを私も分かっていたはずなのに。
近頃になって、『夜に蝋燭を持った男女が中に入っていくのを見た』や『青白い影が屋根上で踊っていた』と、また街で新しい怪談話を生み出している件のレストラン。ショウ君が転校して来た日。初めて怪談レストランに入った日。脚を幽霊に掴まれたりなんて怖い思いをしたその日から、私の周りでも不思議なことが沢山起こるようになった。
嫌だなあ。半べそのまま目を薄めて恐る恐る薄闇の中のレストランを見ると、門のところで誰かが立っている。それを見てしまった瞬間、私はつい昨日レイコから聞いた怖い噂を思い出して足がすくんだ。
『ねえアコ、幽霊が探してる「誰か」がアコだったらどうする?』
『えっ?何の話?』
『最近ね、夕暮れ時の薄闇に紛れて黒い影の幽霊が出るんですって。その影は誰かを探していて、ゆっくりこっちに歩いて来るの。でもその人がその「誰か」じゃないと分かると、通りすがりに「貴女じゃない」って言うんですって。…でもその幽霊を見るのは子どもと女性だけって噂だから、私はただの変質者にしか思えないわ』
レイコは鼻で笑ってたけど、あのレストランの前に佇む人影は…黒くって、かつり、かつり、足音をたててこちらにゆっくりと近づいてくる。
『その誰かってだれなのかしらね』
あ、
理解出来ない見えないものへの恐怖が最高潮に達した時、ふいに懐かしくなるような不思議な声が降ってきた。
「貴女はどうして泣いていらっしゃるんですか?」
黒いその人影が話しかけてきている。
何故だろう。私はこんな人は絶対に知らない。前に会ったことなんか絶対に絶対に……はずなのに。恐怖から外された思考が痺れて、思い出せない。
「眼鏡がないと何も見えないのに…無くしてしまって、何も見えないのが、」
「怖かったんですね」
その黒い影の人が私の途切れた言葉を繋げてくれた。どうしてこの人は私の言いたいことを理解してくれるの?
かつり、とまたその人が近づいてくる。
「でも、あこさん、貴女の目では見えないものや見えない世界に理由もなく、ただ怯えていてはいけませんよ」
えっ?
私の名前を知っている?
びっくりしたのとともに、ぼやけていた視界に視力が戻る。顔に手をやると、確かに私の眼鏡のフレームがあった。
お礼を言おうとしたが、もうその人は居なかった。見渡しても私と不気味なレストランの廃屋があるだけで。気味が悪いなかでも、ありがとうと呟けば
『どう致しまして』
どこからかそんな声が聞こえてきた。
そこではっと気付く。ああ、あの人だったんだ。まだ私の近くにいるのかな。
もう一度周りを見渡す。
じわり迫ってくる夕闇は、まだ少し怖いけれど、見えないものを理由もなくただ怯えていてはいけないって。でも、その闇の中に、側に居てくれる。
私は見えない人に、笑いかけた。