転校生の男の子と怪談レストランに行った日の夜、私は高い熱を出した。吐き気と熱のあまり、目を瞑るだけで失神する速度で短い気味の悪い夢が再生される。
『好奇心とかで、そういう怪談がある場所に関わると呪われちゃうんだよ』
興味本位でこの街にあるレストランの廃墟や病院の怖い噂を囁いていた時に、誰かがそう非難した声が頭からこびりついて離れない。ぬらぬらとした嫌な汗が伝う。背中がぞくぞくと冷えて、このまま死んじゃうかもしれないと一度考えてしまうと…怖くて眠りたくなかった。
お母さんは心配ないって言ってたけど、もし幽霊の呪いだったらどうしよう。怪談レストラン。怖い。あの池の底から響いてくるような冷たい声。足を掴まれる冷たーい手の感触。電話の向こう側の世界。あっちへ行っては行けないのに。
『怪談レストランにようこそ』
手招くような声が耳の中で消えない。
「……あれっ?」
ふと気づくと、私はまた夕方に行った怪談レストランと思われる建物の前に立っていた。『怪談レストランと思われる建物』というのも、あの廃屋にしては華やかすぎたからだった。ぼんやりしたランプが煌々と燃え光っていて、近づくと、食器とフォークやナイフがこすれる音や談笑する声が聞こえ、スパイスの鼻をくすぐる香りが風に乗って流れてくる。誘われるようにレストランの中に入ると、お葬式で着るような黒い礼服で正装した猫が扉を閉めて本日のメニューを教えてくれた。
「では後ほど、ニャ」
火の玉が先立って進み、食事をするテーブルにエスコートしてくれた。テーブルは相席らしかったが、先に座っていたのは品の良さそうなおじいさんで黙々と運ばれてくる料理を器用にナイフとフォークを使い分けて食べていた。
周りを見回すと…薄暗いのでよく見えないが、たくさんのぼんやりとした人たちが食事をしている。ずっと見つめているうちにいつの間にかその人たちは消えるように居なくなり、そしてまたいつの間にか誰か違う人が座っていた。
前菜で運ばれて来たスープは、食べてみると、猫舌の人のためのように冷たい冷たいスープだった。可哀相な猫の悲しみの味付け、とそうメニューには書かれていたのを思い出す。そのスープは今まで食べたことが無いほど美味しかったが、一口一口、舌の上に運んでいくうちに、胸が苦しくてたまらなくなった。
スープの味は食べる毎に違い、人間が憎いけれど人間を嫌いになれない可哀相な子猫が、あまりの悲しさ憎さから化け猫になっていってしまった光景がありありと舌から頭の中に流れ込んでくる。
可哀相な子猫。ごめんね、人間が一番悪いのに…あなたは悪くないのに…本当にひどいよね。ごめんね。痛かった苦しかった悲しかったつらかった。分かって欲しかった理解して欲しかったんだね。
そう思うと悲しくなって、ぽろぽろと涙が零れて来た。私はたくさんたくさん泣きながら、スープを飲んでいった。
飲み終えて顔を上げると、レストランの中にいる人たちがみんなこちらをじっと見ていた。不思議と怖くはなかった。今になって、このレストランを見回すと…戦争中の軍服のような服を着た人、ウェディングドレスを着た人、学生服を着た人などいろんな人がいる。先ほどまで暗くてよく見えなかった顔は微笑んでいる。
相席のおじいさんがふいに私の手をとった。冷たい。けど、私は不思議と振りほどく気にはならなかった。
「苦しみや悲しみを分かってくれて本当にありがとう。ああ腹もいっぱいだ……とても良い食事だったよ」
おじいさんは、そう私に言って幸せそうに幸せそうに満面の笑みを浮かべて消えていった。
周りの人たちも、よく見ると幸せそうに微笑んでいる。何となく私は、この人たちは幽霊なんだと分かった。このレストランでお腹いっぱいおいしい料理を食べて、幸せな気持ちであの世にいくんだ。
また温かい涙が零れて来た。
***
泣いて、泣いて、泣いて。
そして食事が終わっても、私はまだ涙をこぼしていた。あの世へ消えて行くことができない私は消えることができず、席にずっと座ってているままだった。そんな私にすうっと声がかけられる。
「お客様は、こちらへ」
細い女性の声。振り向くと、髪の長い女の人の幽霊が恨めしげに立っていた。
その人の冷たい手に引かれるままに、ついて行く。レストランの入り口とは逆の方の扉。『そこから先は私は行けないの』そう呟いて、その人は手を離して消えてしまった。扉を開けると、お化けトンネルのような真っ暗な闇が目の前に広がり、怖くて足がすくむ。
それでも歩き出せたのは、暗闇の中から白い手が私を手招いたからだった。
「お客様の帰るべき『場所』が何処に居られるか覚えていらっしゃいますか?」
場所?私が帰るべき?……ああ、そうだ忘れてた。今、本当は私はベッドのなかで熱を出して眠っているんだ。
お思い出しになられましたか、そう言葉を紡いだ声は優しげで、その声の主が闇の向こうで微笑んでいるのが分かった。
「当レストランには、死者の出口はございませんが、お客様はまだ生きていらっしゃるようですので…この蝋燭を持って決して振り向かずお進み下さい」
ふいに闇の中に光が灯り、私の手の中であやしく揺らめいた。盆蝋燭だ。久しぶり触れた生気のある温かさをぎゅっと握る。ゆっくりと進んでいくと、後ろからこんな文句が聞こえた。
『今宵は怪談レストランにお越し下さり誠にありがとうございました。当店にいらっしゃるお客様方は、貴女のようにお優しい方がお好きでおられますから、またのご来店をお待ちしております』
目が覚めると、すっかり高い熱は下がっていた。部屋の掛け時計の針は、午前3時を指している。全部夢だったのかな。掌を見ると、火の消えた蝋燭が握られていた。
こんな話をしても、ショウ君やレイコは信じてくれるのだろうか。でも、もう何だかその夢を私は思い出せなくなっていて……次に目が覚めた朝には、記憶からすっかり消えていた。
だから、その夜から、夢であの人の声が聞こえても…私はどこで会ったことがあるのか思い出すことが出来なかった。