ぶちぶち、ぎち、
腕の筋繊維が傷ついて、千切れて。自分の筋肉が悲鳴を上げているほど暴れたのは久しぶりだった。思えば、自分の体にまだまだ脆い部位があったということに驚く。だがこれでまた失ってしまった。この鋭い痛みは、自分の筋肉が強い強い特殊な組織であるせいだろう。足にも全く力が入らず、自力では静かでじっと出来る場所に行くのがやっとだった。
屋上へ抜けるためだけの、最後の階段の踊場。生徒の掃除が行き届かない、埃くさいタイルに寝転がる。上の方でドアが開く音がした。人が見れば奇妙な光景だろうが、それを誰がこの学校でも関わってはいけない人間と避けられているこの俺に言及するだろうか。
「…そういえば、昔はこういう時には幽が一緒にいてくれたんだっけな」
自分が自分を恐ろしく思う時でさえ、自分を恐くないと言ってくれた家族にため息と共に笑みが混じった。 屋上から降りてくる人間のために体を端に寄せる。近づく足音に体を捻ると、そこに居たのは、今一番顔を合わせたくなかった男だった。
「……臨也」
さっと表情が冷えていくのがわかった。
「やぁシズちゃん。屋上からさっきの乱闘見てたんだけど五十人くらい?…途中からもっと増えてたけど、釘バットとか使う喧嘩って俺初めて見たよ。いやーものの見事にもぶちのめした訳だけど」
「……黙ってここから消えろ」
完全に俺を怒らせようという悪意で茶化す臨也は、俺の言葉にわざと派手な身振り手振りで答えた。
「俺の方が先に居たんだから、気に入らないならシズちゃんが『ここから消える』べきでしょう?……あ、それとも流石のシズちゃんも体がズタボロで身動きが取れないとか?シズちゃんの体にもまだ脆いところなんてあったんだ」
なんだかとっても普通の人間っぽいよ。ああでも分かったところで、シズちゃんの体はまた『普通』の人間からは遠く離れたっていうことだけれどさぁ?
臨也特有の、抗うことの出来ない言葉で的確に自分を言い当てられる。真っ向を睨めば、臨也は何ともないという表情でにやりと口を歪めた。
ほら、だって普通の人間の力なんてこんなもんなんだよ。伸ばされた腕に抱きしめられる。これが普通の人間の腕力なのか。身体的には痛くも痒くもない。臨也を引き剥がそうとしたが筋肉に力を込めると、あの激痛が体を襲った。なんとなく、臨也の体を離すというよりは…その体を抱き寄せる体勢に近い。
しかし、痛みはずきりと脳まで響いて、心が痛くて堪らない。それを臨也は読み取ったのか、微笑みを増した。
「痛い?痛いよね。体も、心も。シズちゃんてさぁ、カワイソウだよね。シズちゃんは自分を…自分の力を愛したいのにその力はシズちゃんの言うことを聞かずに君の愛する大切なものを傷つけるんだから。人間誰でも、好き好んで自分のことを嫌いになりたい人間なんていないんだからさぁ。シズちゃんの自分への愛って歪んでるよね、大嫌いな暴力そのものなのに愛したいんだからさ」
歪んでるよ。
何故か卑下するように笑った臨也は、俺の体に回す腕の力をギュッといれた。
臨也は人を追い詰める時、視点を自分の優位なものへ転換し、もしかしたら自分でもそう思ってたのかもしれない…と少しでも相手に臨也の考える通りの思考を植え付けるような言葉を選ぶ。
いつもは、そんなことは違う。と瞬時に凄まじい怒りへと昇華し、そのまま臨也への攻撃で発散されていた。しかし、今回は違った。俺に与えられたのはノミ蟲のための新しい視点ではなく、自分でも『そうかもしれないけれど考えたくない』と打ち消してきた悲しい部分を攻撃された痛みと焦りだった。
「カワイソウなシズちゃん」
臨也が繰り返した。
心の痛みが溢れかえる。俺は思わず臨也の背中に回していた手をよりこちらに引き寄せた。完璧に臨也に頭を抱きかかえられた格好となったが、もうそんなことを考えている余裕はなかった。
すがりたい。
何かにすがりたくて、すがりつきたくてしょうがなかった。
臨也という男の恐ろしさなど、もう頭には微塵もなかった。このようにして臨也が自分の『信者』とも言える存在を作っていることも知っていた。のに、手を離すことは出来なかった。
ギュッと抱きしめても筋繊維の痛みのために手加減が生まれ、いつもは『暴力』にしかなれない腕からは人を愛し抱きしめるだけの力しか生まれない。自分がもし、『普通』だったら、これが当たり前なのだろうが……それゆえに自分が普通ではないことを痛感する。
『普通』になりたい。
臨也の顔は見上げられなかったが、こんな時に、そんなことを自分がどこかで考えていたことを教えないでくれ。
泣き出しそうになりながら、思った。
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普通の人間の力なんてこんなもんなんだよと抱きしめたシズちゃんの体は、自分が普段視覚から想像していたものよりずっと細身だった。
「痛い?痛いよね。体も、心も。シズちゃんてさぁ、カワイソウだよね。シズちゃんは自分を…自分の力を愛したいのにその力はシズちゃんの言うことを聞かずに君の愛する大切なものを傷つけるんだから。人間誰でも、好き好んで自分のことを嫌いになりたい人間なんていないんだからさぁ。シズちゃんの自分への愛って歪んでるよね、大嫌いな暴力そのものなのに愛したいんだからさ」
でも、俺もシズちゃんにそんなふうに言いながらも同じことをシズちゃんに向けてやっている。まだ自分を愛そうとしているシズちゃんは良い。自分が嫌いなのに愛そうとする人間は、社会の中でも誰に言わせてもそれは『正常』だって定義される。でも俺のその感情のベクトルは『異常』だとされるのだから。俺は歪んでるよ、だなんてシズちゃんに言えた義理じゃない。殺したいくらい大嫌いなシズちゃんを愛してるんだから。
自分が馬鹿馬鹿しくて笑ってしまったのを上手に隠せない。その変わりにシズちゃんに触れる腕に力を込める。
ああそんな目で見ないでよシズちゃん。
「カワイソウなシズちゃん」
そう言うと、回されていた腕で引き寄せられた。強く強く抱きしめられてもシズちゃんの腕に力は入っていない。ただ筋繊維が伸びきっているだけじゃない。
カワイソウなシズちゃんは自分に手加減があることに気づいてないようだった。それが哀しくて愛おしくてたまらない。
いつか自分のものにしたい。愛し方も、愛され方でさえもシズちゃんに教えてあげるから、その準備のためにシズちゃんの大嫌いな暴力をさせようとする相手をたくさん与えてあげよう。俺がシズちゃんに教えてあげるまで、愛し方も愛され方も知ることがないように。
俺は満足げに、泣き出しそうに震えている金髪の間に指を通した。