flyby(シャアシャリ)

 机の上に置かれた拳銃をしばらく見つめた後、少女は椅子から立ち上がり、その手に銃を取った。
 何年も前から支給されなくなったモデル。それは木星からの帰還と戦況が変わったどさくさで返却を求められることなく、ずっと手元に置いていたものだった。片手で射撃可能な短銃だが、それでも小柄な彼女の手のひらには余る。

「……じゃあ、大事に取っておく。空っぽなあんたがずっと取っておいたものなら、少なくとも大切にしてたってことでしょ? この部屋、独房かってくらい全然モノないし」

 その言葉に驚く。が、続くマチュ君の文句もあり、口を挟むことは出来なかった。

「それに、コモリンにバレないように気をつけるって言ったって、難しいんだから。コモリン、あれで結構目敏いんだよ」
「君なら大丈夫ですよ」
「もー、何の根拠で言ってんだか……」

 マチュ君はぶつぶつと不満を口にしながら、部屋を出て行こうとする。途端、出会い頭にコモリ少尉が姿を現した。二人はドア越しにお互いにギョッとした表情を浮かべた後、ナイスタイミングだとマチュ君が笑い、少尉も笑いながら独房へエスコートする。

「またね、ヒゲマン」
「はい、また」

 閉まるドアの向こうにその後ろ姿を見送り、私は微笑んだ。
 あなたも、彼女も、ニュータイプですからね。
 しかし――

「辛気臭いだとか、男やもめのようだのとは思われていたことはありますが。独房みたいだとは、初めて言われましたね」

 戦争を知らないサイド6の裕福な家庭で育ったというのに、今やペットロボットと監視のついた情報端末しかない独房で平然と過ごしている彼女も大概だ。暗い独房の中では、ほとんどぼんやりと宙に浮いて過ごしていると聞く。
 暗闇の中で考えているのは、きっとあの少年のことだろう。

「…………」

 今や何も置かれていない机の縁に手を滑らせ、椅子に腰を下ろす。ぐるりと見回す周囲は、指摘通りの殺風景な空間が広がっていた。
 宇宙という環境、軍人という身分、戦争という状況が、常に身を軽くしていたのは事実だ。しかし木星の事故以来、モノに対する執着はほとんど無くなってしまった。支給品以外は、立場に見合う最低限の衣服やワイングラスくらいのものだ。
 ああ、でもポメラニアンズのステッカーは買っていましたっけ。これなら押収されても、民間人を巻き込んでジークアクスを私物化した私の立ち位置を補強さえすれ、処分に困るものでもないでしょう。ついに、あの銃とともにあったいつでも自分の意志で死んでよいという自由も手放したのだから。あとは、私に残っているのは、するべきことだけ。それだけです。
 目を伏せ、手を組み、これからのタスクに集中する。ザビ家兄妹の排除。軍人として責任を取り、果てること。それと――

「大佐……」

 絞り出した声は、自分でもひどく情けないものだった。
 マチュ君から色々と質問をされたからか、木星船団の話をしたからか。あの銃をついに手放したからか。それとも彼の話をしたからか。今まで何度も考えてはたどり着いた祈りのような想いに行き着いてしまう。
 五年ぶりに役者が揃いつつある。五年あれば、木星まで往復できる。人間性が完全に変わることもあるだろう。しかし、彼はどうだろう。

「大佐、どうか、どうか出てこないでください……」

 ギレン総帥とキシリア閣下は私が排除いたします。どうかこの五年という月日の中で、シャア大佐でもなくジオン・ズム・ダイクンの忘形見でもない一人の人間となっていて下さい。そうでないと――
 と、気がつくと、額に指を当てて、深く宇宙を探っている自分に気がつく。無意味な行動に、私はほとほと自分に嫌気がさした。髪を掻き上げ、また目を伏せる。
 この五年、彼の存在を捉えたことも、彼が私に応えたことはない。都合よく考えれば、それは軍や政治に関わらないこととしたとも取れる。が、空虚な心に責任感を背負い込んだ彼の行動原理は、よく分かっている。
 大佐が、諦めるはずがない。
 ……なのに、願ってしまう。無駄だと言うのに。
 ソロモンでの彼の行動の顛末は、彼の妹から聞いた。そもそも、窮地に陥った連邦が自棄を起こす以前から、ソロモンをグラナダに堕とすことを視野に入れ、自軍の基地に爆弾を設置する場所まで考えていた男だ。もし彼が先に動いていたとしたら、グラナダとソロモン双方でより多くの人間が死ぬことになっただろう。
 ただ、私にとって重要なのは死者の数やジオンの損害ではない。ここで問題なのは、その手法だ。ザビ家を潰すにしろ、いくらでも方法はある。あのソロモンでの一件は、戦争後の計画に着想を得たその場の思いつきだったにせよ。大佐はキシリア閣下を殺すためだけに、多くの犠牲を出すのを厭わない判断をしたということだ。理想のためには多大な犠牲を払っても仕方ないという価値観と方法論を持つ君主は、誰にとっても得にはならない。残念なことに、大佐にはその立場になれる能力と背景がある。しかも大佐はニュータイプだ。なおさら、次世代のニュータイプのためにはならない。
 そうでなくとも、私たちの世代のニュータイプは人を殺しすぎた。軍事行動においてニュータイプの能力は、効率よく人を殺すための便利な特質に成り下がった。だから私は、旧い世代として邪魔なものを道連れにすることを選んだのだ。
 その邪魔なものの中に、大佐が入って来ることは分かっている。彼がこの五年で変わっていないとしたら、ザビ家を排除するチャンスがあれば、間違いなく表舞台に登って来る。大佐はみすみす機会を逃す男ではないのだ。
 大佐が就位しづらい状況は作った。しかし、私の予想を簡単に超えるのが彼だ。

「その時は、その時です」

 私は独りごつ。
 私の死後に彼に出てこられては、どうしようもない。
 ならば、結末として誰か大佐を殺す前に、彼が自滅する前に、この手でいっそ。
 
「――――」

 私はため息をつき、姿勢を崩した。
 彼という空っぽな人間が本質を理解することなく犯すだろう絶望の種を残す可能性の方が耐え難い。
 排除するとして、簡単に出来るものでもないのは分かっている。相手はジオンのエースパイロットだ。殺し切れるかどうか危うい。再起不能にできるかどうかだ。相手はニュータイプ。裏切るとしても、一瞬のうちでなくてはならない。説得は、おそらく難しい。
 影響を与えられたのは、私であって。彼ではないのだ。
 すでに殺す覚悟はできている。どうせ彼の後、すぐに私も死ぬ。
 しかし、それでも――

「惜しいとさえ思わせるのが、大佐の怖いところですね」

 確かに、光はあったのだ。それは五年の歳月に比べると一瞬でしかない短い時間だったが、それは空っぽな私をわずかに変えたものだ。
 他人の心が読めるというのは、便利なことだと皆が心の中で思っている。しかし実際のところは、傲慢さと孤独を生むだけだ。勝手に相手の心に踏み入り、勝手に失望したり怒りを覚えるくらいが関の山だ。自分が分かるように相手が分かってくれるとは限らない。相手を理解しているのに、相手には通じない。
 しかし、そんな宇宙のように黒々とした世界の中で、時折、微かな光のようなものとすれ違うことがある。人の心の善性と言うべきか、人類に絶望しないでいられる希望のようなものがある。それが私をまだ人間の社会に置き留めている。どうせ他人と分かり得ないという諦めを忘れさせ、期待させる何か。それは他人の心を読めない者同士の中にも確かに存在し、それは『共感』『通じ合う』『心の柔らかいところ触れる』など色々な言葉で呼ばれる。みな、その共鳴の一瞬のために他者に心を割くのだ。
『新しき、時代のために』
 そう言ったあの時の大佐にも、私が眩むほどの光が確かにあったのだ。たった一度、一瞬ではあったが、真空の中に居る私の軌道が変わるほどの力が。

「総員へ告ぐ。デブリ多発宙域に進入する。衝撃に備え、各持ち場を固定、各自持ち場で待機せよ。繰り返す、衝撃に備え、各持ち場を固定せよ」

 急に艦内のアナウンスが入り、艦長が静かな声で命令を繰り返す。ソドンは地球の軌道上、イオマグヌッソに向けて淡々と航行を続けている。後へ退く選択肢などない。
 ただ、なぜか何度も思い返すのだ。彗星とすれ違った瞬間の永遠の記憶を。
 あの光は、いつか歪む。だから、この手で先に止めるしかないのだ。