――ブオ……ォォン
――ブオ……ォォン、――ブオ……ォォン
調子はずれな柱時計の音がうるさい。
まどろみながらそう思う。間延びした鐘の音に交じって聞こえるカチ、カチ、という秒針の音は居間に掛けている柱時計に間違いなかった。
柱時計は9回鐘を鳴らし、静かになる。昼か夜かは知らないが、昼ならそろそろ起きないと俺の分の昼飯をあいつらに食べられてしまう。
そうしてふと、あの今の柱時計はとっくの昔に壊れて母さんが捨ててしまったんじゃなかったかと思いだした。だって、あの柱時計を使っていたのは、今から10年以上も昔の小学校に通っていた頃の――
目を開けると、目の前は布で覆われていた。
「――――?」
はっと飛び起きようとするが、体が動かない。持ち上げかけた肩を寝ていた床に思いっきりぶつける。
「ッテェ……」
てか、俺今もしかして縛られてる?そのうえ裸?
妙にざらざらした畳がその肌にこすれる。いつも母さんが綺麗にしている居間の畳じゃない。
ここは、どこだ?頭の中がばらついて、眠っている直前の行動が思い出せない。競馬?居酒屋?パチンコ?それとも家だった気もしなくない。
ずりずりと畳の上でどうにか縛られている紐から抜け出そうともがくが、両腕は後ろ手に、足は揃えるようにしてしっかりと縛られているらしい。
「……チョロ松?お前の雑誌に醤油こぼしたのまだ怒ってんの?いや、トド松?それとも一松?煮干し勝手に食べたのバレた?もしかしてカラ松?十四松じゃないよな?」
からかわれているのか、それとも兄弟に制裁されているのか。不安になって兄弟の名前を乾いた唇で呼ぶ。怒られるようなことなら心当たりがないこともない。
しかし、いつもならここで怒鳴り声をあげるはずのチョロ松やトド松の返事はなかった。
「おーい、誰もいないの?何、怒らせるようなこと俺なんかした?それなら謝るからさー」
だれも周りに居ないのかとも思ったが、誰かが少し離れた位置で深いため息をついた音がした。
「な、なんだ、居るなら返事してよぉ。お兄ちゃんびっくりしたよ?」
しかし、その『誰か』はため息をついたっきり、黙ったままだ。
「ねえ、どの松だか知らないけど、返事くらいしてくれない?」
顔の前でぱきりと関節の鳴る音がする。その誰かは俺が話している間に、俺の方へ近づいてきてしゃがんだらしい。関節が鳴るほど体が凝るまで、その誰かはじっと俺の側で俺が起きるのを待っていた。兄弟にこんなことをする奴は誰もいない。
妙な雰囲気を感じ、自分の声が震えるのが分かる。
「あ、もしかしてジグゾウ?演劇部だったのはカラ松って言ったじゃん」
「…………」
返事は返ってこない。でも、確実に目の前にいる。
ただただ気味が悪い。
「あ、もしかして、他のやつと間違えてない?やだなあ。まあ、この年になってもまだよくあるんだよねぇ。イヤミなんかまだ俺のことをトド松と間違えるし。俺たち6つ子だから。うん、だから、たぶん俺じゃないと思うよ」
そこまでまくしたててから、俺はふとこいつは間違えちゃいないのだとなんとなく思った。
にちゃ、と唇の開く音がする。
「……お前だよ、松野おそ松」
気味の悪さとは裏腹に、その声音はさわやかさも感じさせるものだった。思わず拍子抜けするが、そのギャップゆえに余計に得体の知れなさが際立つ。
こいつはやばい。関わっちゃいけないタイプの奴だ。
動けないなりに後ずさろうとするが、きつく縛られているせいで距離も離せない。必死に横に転んだ体を芋虫のようにくねらせる。
「……で、誰だよ、俺に用があるにしても、こんなことまですることないんじゃない?」
「する必要はあるさ」
「な、何で?」
誰かの指が俺の横腹をすっとなでた後で腰を掴み、その手でうつぶせに転がされる。
「俺はお前に恨みがある者だからな」
「え?」
「まさか覚えていないとは思わなかったけどな。いじめた奴はいじめられた奴を忘れるって言うが、俺もお前をこうやっていじめていたから。少しくらいは覚えているかと思ってたがな」
指がつつ、と俺の腰から滑り、そのまま尻の割れ目に入ってくる。
「えっ?」
こうやって?
即座に尻の筋肉に力入れるが、誰かの手は割れ目をぐっと両手でこじ開けられる。入り口に硬い細いものが当てられたのが分かった。太ももに触れる感覚でそれはプラスチックのチューブらしいと頭が導き出す。
なにこいつ?何しようとしてんの?
ぐりぐりと押しこもうとしている硬いチューブがちりちりとあたってむずがゆく、そして痛い。
ぐにぐにと尻を揉みしだかれ、やっとどういう意味をこの行為が持っているかを理解する。
その誰かは俺のケツに何かを入れようと躍起になっていて、しかもそれは性的なニュアンスを含んでいるらしい。
こういうプレイは女の子にされたかったよ、俺は!
「ふ……っざけんな!俺にこんな趣味はない!離せ!」
「本当に覚えていないのか?よくこうやって二階の部屋や裏庭や空き地で遊んだじゃないか。みんなに隠れながら」
二階?裏庭?みんな?
動揺した瞬間、ついにその細い管は入ってしまう。
「ああっ」
ずずっと奥まで差し込まれた先、腸の中に液体が放たれる。
浣腸だ。
その冷たさに身震いする。
「冷たいか?」
すこし優しい声音が降ってくる。ただ、すぐにそれは見せかけだと俺はなぜだか判断した。
優しげな見てくれと態度の裏に、臭い欲望とそれに忠実な残忍さを隠している。
その『誰か』の顔も様子も見えないのに俺はそう思った。
……俺は、こいつを知っている?でも一体全体、こいつは誰なんだ?
俺のナカからチューブが出ていき、俺はすこしだけ安心した。誰かも分からないやつに何がなんだか分からないまま、自分でも触れないような場所をこじ開けられるのはただただ気味が悪い。
「は、なあ、おじさん」
「あ?」
『誰か』はひどく驚いたようだった。
おじさんという年齢なのかは分からないが、出来るだけ優しく扱ってもらおうと自然と親しみを込めて話しかける。
「この頭にかぶせてる袋、取ってくれない?顔見たら思い出すかも」
おどけた調子で提案するが、誰かは落ち着きを取り戻した様子で、俺の声など聞こえなかったように立ち上がって俺の側を離れた。
「……ちょっと出かけてくるから40分我慢しろ。我慢できなかったら、お仕置きだ」
「えっ?ちょっと?このまま放置する気?」
「何言ってるんだ、おそ松。こういう時は『早く帰ってきてね』って言うんだ。このまま俺が帰らなかったら、お前は糞尿にまみれて動けないままそのうち脱水症状で絶望しながら餓死するんだぞ?」
「は?」
おじさんの言っている末恐ろしい内容を理解する前に、すぐ近くで襖が閉まる音がした。ぎしぎしと鳴る床の足音が遠ざかる。
「え?本当に行っちゃった?え?どういうこと?」
混乱した頭の中で、おじさんの言葉を反芻する。
40分我慢しろ?何を?てかいきなり何なの?俺なんかした?あいつはなんか俺と家のこと知ってた風だったけど、全然記憶にない。
「あーっ!!もう!なんなんだよ!意味分かんないし!」
思考を現状から放棄する。
麻袋を被せられているせいで、俺には聴覚と触覚しか情報源は無い。おじさんはほとんど質問に答えてくれなかったし、これ以上考えていたくない。
考えるのを止めると、時計の音がやけに耳についた。
時計が狂っていなければ、さっきは11時の鐘が鳴っていた。あいつら、今頃何してるんだろう。昼間ならやっと起きた頃だろうし、夜なら並んで眠ろうとしている頃だろう。
考えるのをやめようとしても、自我というものが俺を離してくれない。打ち消しても打ち消しても、すぐに何かを考え始めてしまう。
俺がこんなことになってるの、あいつら知ってるのかな?俺が居なくなって、探してくれてるだろうか?いや、俺ももう成人済みだから母さんたちもそこまで心配しないかな。普段も飲んだりで遊び歩いてること多いし。カラ松が誘拐された時もなんだかんだ皆放置していた。双子とかだったら双子の第六感で見つけるとかいうけれど、俺たちは6つ子だし、そんな感覚は今まで一度もなかった。ピンチの時にテレパシーなんて使えるはずがない。
でも、なんであいつらじゃなくて俺なんだろう?
おじさんは俺にこういうことをしていじめたって言ってたけど俺は覚えていないし、おじさんをいじめた覚えもない。
未だ打ち消せない他の兄弟と間違えている可能性を考えてしまい、いやだからと言って他のみんながこういう目に遭って良いというわけではないと頭の中で打ち消し自分を嫌悪する。
おじさんが帰ってこなかったら、俺は本当に死んじゃうのかな?
目を閉じると、弟たちの顔や家の様子が浮かぶ。
こんな目に遭っているのは、何かの罰なの?
胸に聞いてみても、思い当たる部分しかない。
確かに最近だとカラ松驚かして屋根から落としちゃったし、チョロ松の雑誌に醤油こぼしたし、一松が隠してる煮干しをまた勝手に食べたし、トド松が女の子と居る時にあいつのこと弄ったし、十四松と食べ物取り合ったよ?でもみんな同じようなことやってるかんね?
ぐるぐると考えているうちに体が冷えてきて、身震いする。
40分ってこんなに長いものだったっけ?
そう考えているうちに、おじさんが何を我慢しろと言っていたのかがやっとわかって来た。冷えと浣腸に刺激された内臓がきゅるきゅると音をたて始める。
「は、あ……」
息を整えるが、腹の重みと痛みは増してくる。腹を抑えて温めたくても、縛られた両手では出来ない。もぞもぞと動いてみると、便意が余計刺激されてしまい、俺は自分の尊厳を守るためにはじっと気を紛らわせているしかないと気が付いた。
内臓から水音が聞こえる。ぐるぐると腹の中で巻かれて収まっている腸のナカを、浣腸液が流れて中をほぐしていくのを想像をしてしまい、俺は泣きそうになった。
そのうち、
――ブオ……ォォン
調子はずれな柱時計の鐘が10回鳴る。
我慢しろ、とおじさんは言った。我慢できなければお仕置きがあるとも。あの得体のしれない男がお仕置きをする、と言ったのだ。我慢できなかったら、俺はどんなひどい目に遭わされるのか分からない。それに、自分のトイレも管理出来ない赤ん坊のような姿を他人に晒したくはなかった。
目を閉じて深呼吸をしてじっと待つ。
お腹がただただ痛い。
人生で一番長い40分を耐えていると、遠くから大きく咳をする声と床の軋む音が聞こえた。そして、立て付けの悪いらしい襖が開く音がした。
「おじさん!」
嬉しそうな俺の声に自分でも驚く。が、相手もそうだったらしい。一瞬たじろいだのがなんとなく分かった。
「ハハハ、よく我慢できたね」
取って付けたようにおじさんは笑い声をあげて俺の頭を麻袋越しに撫でる。そして、ついに麻袋が取り除かれた。
目じりを下げた笑顔の中年が目の前には居た。少し疲れて見えるが精悍な風貌。笑顔ではあるが瞳はぎらぎらとして胡散臭い。年齢は40代くらいだとは思うが、古ぼけたデザインのスーツと疲れた表情のせいかはっきりは分からない。もしかしたら30代かもしれいし50代かもしれない。見たことはある。でも、誰だったか、いつ会ったのかは思い出せない。
「あの……我慢できたから――」
記憶をゆっくり探るより、俺は自分の内臓の悲鳴を聞く方が先だった。
『おじさん』はよく心得ているよ、というように微笑んだ。
「ああ、トイレに行きたいのかい?」
こくこくと頭を振ると、おじさんは腕と足の縄を解いてくれる。
「そこの襖を出て左だよ」
俺が縛られて寝ていたのは10畳くらいの和室で、端に丸められた布団以外は何もなかった。探す気力は無いが、どこかに柱時計がかかっているのだろう。家の居間に少し似ている。おじさんがそこの襖と言った襖に体を引きずるようにしてにじり寄る。
全裸で放置されていた冷えと縛られていたせいで血の巡りが悪くて動けない。貧血を起こしているのかもしれない。足が攣った時のようにプルプルと震える。力を入れたら、今まで耐えた努力が水の泡になる。蛇が這うように体をずるずるとすりながら、俺は冷たい廊下にでる。
冷たい床は重い腹をした俺には地獄のようだった。
「ふう、ふ、う……」
手伝ってくれるのではないかと一縷の期待で後ろを振り返ると、おじさんは俺の四つん這いの姿を嬉しそうに見ていた。
ああ、こいつは俺を苦しめたいんだ。
たかが、廊下を数メートル歩くだけ。それだけなのに、辛くて仕方がない。
なんでぼくがこんなめにあうの?
「、…いやだ……いや、だいやだいやだいやだいやだいやだ」
いつの間にかぽろぽろと自分が泣き出しているのにやっと気が付く。
「何で、『ぼく』なの?」
やっとたどり着いた汚い和式に跨り腰を下ろして安堵した後、俺はさめざめと泣いた。
……それでも、そのうちにカギのついた個室の中という空間に落ち着きを取り戻す。俺は今までの異常さをはっきりと飲み込み始めていた。
手足が自由になった今、どうにかして逃げなくては。
見回しても、武器になるようなものは冷たいトイレの中にはない。ただ釘づけされた小さな木窓がついているだけだ。
もしかしたら、ここから助けを呼べるんじゃないか?
ふいに今まで頭にちらりともよぎらなかった助けを求めることを思いつき、窓枠に打ち付けられた錆びた釘に手を伸ばす。早くしないと、おじさんに気づかれてしまう。
素手で釘を引き抜こうと悪戦苦闘していると、外でガンガン扉をたたく音がし始めた。少し時間がかかり過ぎてしまったようだ。
はやく、はやく。
爪がぼろぼろになるのも厭わずに大急ぎで窓をこじ開ける。
しかし、開けた窓の外には真っ暗な闇が見えるだけだった。
「――――ッ」
四角く切り取られた闇の先には、何も見えない。ドアの外から叩く音がどんどんと早くなる。俺は自分の血の気が引いていくのが分かった。
窓枠を外そうと腕を入れる。しかし、その途端、髪の毛を掴まれ、後ろに引っ張られた。
「ッ、ぎぃっ!」
古い木に爪を立てて抵抗するが、爪の間に木のささくれが入り込むだけだ。振り向こうとすると、体のバランスが崩れ、俺は冷たい廊下に叩きだされた。
態勢を整えようとすると、するどい平手が頬に飛んでくる。俺は転げて壁に叩きつけられた。
「ッ」
ぶつけた頭と肩が痛い。叩かれた頬はカアと熱くなる。遅れて、顎が震えて歯と歯がぶつかってガチガチと鳴りだす。
やばい。
おじさんが俺に馬乗りになり、骨が軋む。その腕がまた殴ろうと高く上がる。
「ごめんなさい!」
咄嗟に俺は顔をかばう。すると、おじさんは何を思ったか俺の上から退き、俺をうつ伏せに投げた。後ろからはカチャカチャとベルトを外す音がかすかに聞こえた。
その後のことは覚えていない。
……ごめん、カラ松。ごめん、チョロ松。ごめん、一松。ごめん、十四松。ごめん、トド松。
俺は一生懸命、子どもの頃の恰好をした他の5人に謝っていた。
俺のせいで他のみんなが巻き込まれた。ごめん。
しかし、そう謝りながらも、俺は同時にひどく腹を立てていた。
どうしてどうしてどうして。どうして俺なんだ?どうして決定的なことが起きるまで、気づいてくれなかったんだ?俺はお前らだし、お前らも俺だろ?……でも、俺のせいで巻き込まれて、これで兄弟みんな一緒だよな。でも、なんで、『ぼく』だけなんだ?――いや、ごめん。俺だけが我慢していればよかったのに。なんでなんでなんで??
アンビバレントな感情に頭がぐるぐるする。こめかみを抑えてしゃがみ込むと、みんなは心配して俺に近づいてくる。
そこでふと顔をあげると、ぼくだけが子どもで、みんなは大人で――
――ブオ……ォォン
調子はずれな鐘の音が聞こえる。
はっと目が覚めると、カビ臭い潰れきった布団の上に寝かされていた。裸の肌にそのじめっとした布が気持ち悪い。さっき目覚めた時と同じ居間だ。煌々と光っている電球の灯りがまぶしくて、顔がむくむような感覚に襲われる。ああ、そういえば、殴られていたんだっけ。
おじさんの姿はない。
先ほど目に入らなかった柱時計は俺の寝ていた壁側につけられていた。
その時計の裏から鎖が伸びている。辿るうちに、首に違和感を覚えて手をやると、首輪のようなものが付けられている。それには錠前がついていて、鎖とつながっていた。鎖を引っ張ると、時計が動く。時計の裏に打ち付けられた鋲に続いているらしい。力任せに引っ張っても、どう見ても外れそうにはなかった。
今回は手足は縛られてはいないが、体は重くて何もできない。
もう一度目を閉じると、さっき見ていた夢を思い出す。
「――夢、かあ」
恐ろしい夢だったのにも関わらず、俺はなぜか無性に悲しくなって来た。乾ききった体からは涙は出なくとも、この悲しい気持ちをどうにかしたくなり、叫ぶ。
最初は言葉にならない嗚咽でしかなかったが、だんだんと悲しみと怒りと困惑で声が大きくなる。
悲しさで折り曲げた体は、ぽっかりと穴が開いたようにすうすうとうすら寒い。夢を見る前のこと、気絶する前に自分に起こったことをちゃんと自分で分かっているからだ。
太ももに垂れる白濁した液体は、寝ていた布団とそこを粘り気のある糸で結んでいる。
「うっ、うあああああああ!!ひぐっ、何で!!何でぇ、『ぼく』なのぉ??いやだ!いやだいやだいやだ!!いやだあ!」
泣き叫びぐるぐると布団の上でのたうち回った後、喉が枯れて声が出なくなった俺は布団に突っ伏して冷静に自分の置かれている状況を考え始めた。
今、俺はおじさんにどこかの家に連れてこられている。そしてその直前のことは全く思い出せない。
俺はおじさんは以前に会ったことがあり、おじさんは俺たちの中から俺を見分けて連れてきている。おじさんは俺に浣腸をしたが、前もこんなことをしたことがあるらしい。そして、俺を犯したこともあったらしい。……俺自身は覚えていないのだから、そう主張するおじさんはただの妄想に捕らわれた狂人でしかないはずなのだが、なぜか俺はそれをはっきりと否定できない。
耳を澄ますと、柱時計の秒針に交じって水が流れていく音がした。
しばらく突っ伏した姿勢のまま、それを聞いていると、軋む足音と咳をする声がこちらに近づいてきた。
――おじさんだ。
どうせ逃げてもすぐに捕まる。隙をついて立ち向かっても、どうせ殴り倒されるだろう。
やってもみていないことだが、俺にはなぜかそうされると分かっていた。おじさんが縄でもう一度俺を縛りなおさなかったのは、俺が逃げないと分かっていたからだろう。
でも、アレはいやだ。
体が自然と襖から離れようとする。それでも、
「起きたか」
おじさんがそう言って部屋に入って来た時、俺は布団を体に巻いて部屋の隅に逃げることしかできていなかった。体は思っていたより衰弱している。立ち上がろうとすると、また目の前が暗くなりかけたのだ。
「ほら、これ飲め」
ぱきりと関節を鳴らしながらおじさんは俺の目の前に屈み、俺の髪を掴んで顔を上げるとフチのかけた茶碗を口元に寄越してくる。
頬を指でぐっと捕まれ、頬肉が歪み唇を無理やり開けられる。
「飲め」
強い調子で言われ、その茶碗に口をつける。飲むつもりはない俺は傾けられるままにする。端からぬるくて味の薄い茶が垂れて、布団や畳にぼたぼたとこぼれた。それでも渇いた口の中にそのお茶は沁みてしまった。おじさんは満足した様子で、俺を放つ。それから、俺から少し離れた場所に腰を下ろし、ひどく苦しげに咳をした。
ああ、この男は長くはないんだろうな。と、とっさに思った。同時に、自分が死ぬと分かっている奴の覚悟と凶行はこわいとどこかで聞いたのを思い出した。
おじさんは自分にも茶を注ぎ、ぐいと飲み干す。どことなく、顔色も悪い。湿らせた唇はしばらくは苦しげに歪んでいたが、ようやっとしてゆっくりと緩んだ。
「おい、おそ松……首輪、痛いだろう。鍵は俺が持ってる。慣れるまではそのままだ」
おじさんは着ていたジャケットを脱ぎながら、不意に小さな鍵を取り出して俺の眼の前で振ってみせる。そうして、脱いだジャケットのポケットにしまい、上からぽんぽんと叩いて見せた。
「お前がいい子にしているなら、すぐに外してやるよ」
なあ、とおじさんが仰向けに転がる俺に近づいてくる。片手にはピンク色のボトルが握られている。甘ったるい鼻につく匂いが頭にかすめる。あれは、ローションだ。
初めて見るはずなのに、何で俺はそれに見覚えがあるのだろう。
ああ、あれは嫌いだ。『おじさん』がそれを持っている時は、『ぼく』が汚れる時だ。
「なあ、おそ松くん。おじさんが一緒に遊んであげようか」
吐き気を催すような笑顔を浮かべて、男がのしかかってくる。
考える間もなく、口を塞がれる。突然のことに呻く俺を無視して、おじさんは俺が掴んでいた布団を剥ぎ取った。汗ばんだ裸が晒される。
ああ、怖い怖い怖い怖い。こうなったら、俺は『おじさん』から逃げられない。人生の暗がりへと投げ込まれてしまう。
「う、わっ」
おじさんの節張った指が俺の股間に伸び、股を割られる。冷たいぬるっとしたものが垂れたと思った瞬間、俺の中に何かが入ってきた。
思わずキャッと甲高い声を漏らす。すると、その反応におじさんは嬉しそうにした。
「なあ、おそ松。十年前に戻ろう」
「何言ってんのアンタ、頭おかしいんじゃないの!?」
べろべろと首輪に沿って俺の喉を舐める舌が耳元へ辿ってくる。
汚ない。汚らわしい。吐き気がする。
いやだいやだと目をぎゅうぎゅうと閉じる。目を閉じた頭の中でぬらぬらしたナメクジが耳の中に侵入してくる想像がまたたいた。
でも、悔しいという気持ちは何故かせり上がってこない。俺ってそんなに自尊心が低かったろうか?
その舌は再度下へ降りていく。それが鎖骨あたりでかつりかつりと歯を立てるものに変わり、胸まで降って乳首を食みだした。
こそばゆい不思議な感覚が頭に上ってきて、かあっと体温が上昇したのが分かった。
ここで、割り入れられた指の動きに慣れた内臓からしびれるような快感が走ってくる。思わず目を見開くと、おじさんは俺が感じ始めているのが分かるようで、にやりとすると噛まれて腫れた乳首を思いっきり抓った。
「――いっ、あ」
指の動きを早めながら、さらに唇は降る。
一度先っぽを咥えられて、離される。離された反動で腹に打ちつけられた自分自身の硬さで、自分が勃っているのをまじまじと考えさせられる。
「あっ、ぃやだっ!…っ、くぅ……ふ、む…っ」
指を増やしてまた深くまで沈めながら、おじさんは俺に口付けてきた。
「まだ思い出さないのか?おそ松。こうやって俺と遊んだじゃないか」
優しく聞いてくるが、覚えていないものは思い出せるわけがない。覚えていたとしても、思い出したくもない。
黙っていると、おじさんは怒ったように白髪の混じった髪の毛をかきむしった。
「何でお前は覚えていないんだ!俺がどれだけお前を恨んで思って生きてきたと思っているんだ!?」
ぱしっと鋭い音がし、頭が横にねじれる。じんじんと熱を帯びる頬。叩かれたらしい。
もう一度、音がして視線を反対側に向される。
おじさんは両の手で顔を覆い、指の間からギラギラとした目で睨んでくる。
「十年以上だぞ、おそ松。十年!十年!お前はまだ二十そこらだから分かるだろう?お前の人生で言ったら半分の月日だ!」
分かるだろうと吠えた後、おじさんは静かになった。おじさんは顔を両手に沈めて微動だにしない。古ぼけたスーツのズボンの中で、怒張したいちもつがテントを張っているのが見えた。
……誰も居ない、汚ない和室におじさんと俺の荒い息だけが響く。
そうこうするうち、
――ブオ……ォォン、――ブオ……ォォン
と、調子外れの柱時計が自分を主張するかのように鳴った。
すると、時計についたからくり人形のように、おじさんが動き出した。
「そうだ。十年前に戻ろう」
その声音はぞくっと鳥肌が立つほど変に明るい。
カチャカチャと、体の下の方でまたあの音がする。これから犯されるのだ。今度は気絶出来そうにもない。俺はすぐに歯を食いしばって力を入れるが、ローションに滑ってぬるりとおじさんは俺に入ってきた。
身が裂ける。痛い。
よがる俺の上で、男が満足げに呻く。その口の端から滴った涎が、俺の唇に落ちた。
拭いたいが、徐々に染みて口の中に入ってくる。
「おじさん……痛い……」
「初めての頃はそうでも、最後の頃はお前も悦んでいただろ。大丈夫だ」
意味が分からない。最初?最後?
くしゃくしゃとおじさんが俺の頭を撫でてくる。その優しい手はだんだんと緩急をつけ始め、最後は髪を強く引っ張り始める。
髪を掴まれたまま、腰の動きが始まった。
「痛い……い!ああ、っ」
ずりずりと内臓を擦られて、すくんだ腰を平手で叩かれる。
「いや、だ!」
反射的に抵抗すると、もう一度強く引っ叩かれる。
叩かれるのが、怖い。
大人しくすると、腕を組むように掴まれてぎゅうぎゅうと中に押し付けられた。
「肩が、外れ……!」
柔らかい臓器の奥を固くて熱いものが叩いている。圧し潰すように中を押されるたび、俺の肌とおじさんの肌の間でローションがくちくちと音を立てる。
ぼろぼろと涙が溢れてくる。
「ぎっ、あがっ、あ・あ」
痛い。でも――
「いっ……んぁ!」
でも、気持ちいい。
痛みと快楽で脳が溶けていく。我慢できずに、嬌声が漏れ始める。
「あああ、あっ、おぉあっ…」
俺の高い声とローションの水音の合間に、目を閉じて力任せに腰を打ちつけながら、おじさんがむせぶ。
「何、でお前は覚えていないんだ……なのに、何でお前は変っていないんだ……」
「ああ゛っ、」
そんなこと言われても知らないもんは知らねーよ。
そう反論してやりたいが、喉は動かずにうめき声しか発せられない。
「何で、10年前と、変わらないんだ!?」
「あっあっあっあっ、あっ!あ!あ!ああ!」
絶頂が近い。口から涎が垂れる。
小さくおじさんが呻く。その瞬間、ものすごい力で体を引き寄せられ、鎖の音がした。
「ぐえっ、!」
首の輪に繋がった鎖が、俺の首を絞めた。快感の波が押し寄せる。腹の中に、温かいものが広がる。息ができないまま、俺は果てた。
――ブオ……ォォン
――ブオ……ォォン、――ブオ……ォォン
また、柱時計が鳴っている。
気づけば、俺は震えながらぼんやりしていた。おじさんは近くの壁に寄りかかって、苦しそうに咳き込んでいる。
「思い出したか?」
俺の視線に気がついたのか、無理やり喉をきれいにし、おじさんが不敵に笑ってみせる。
かわいそうなやつだな、と思う。
「おじさんが俺にそんなに執着しているとこ、悪いんだけどさ。俺、本当に覚えてないみたいなんだよね」
俺が乾いた口でそう言うが、おじさんは反応しない。
「10年前から変わってないって言うけど、俺もう20超えた大人だし。声変わりしたし下の毛だって生えてるし。ってまあ、メンタルは小学六年生のまま成長しちゃったとかは言われるけどさ」
刺激しないように、言ったつもりだったが、おじさんには何か引っかかるところがあったようだ。
ハハハ、と乾いた笑いを急に上げた。
「ハハハ、小学校六年、ね」
ハハハハハ、と笑う声はだんだんと大きくなる。
「おじさん?」
今までも頭がおかしかったが、また違った不気味さが空気ににじみだす。
おじさんはひとしきり笑った後、頭をかきむしった。その腕の中からのぞく口元はこれまで以上に歪な形に上がっている。
ついに狂った、となんとなく、俺には思えた。
「完全に固着してるのか!」
そうか、とおじさんがふらつきながら立ち上がる。
「十何年前にまいた種がちゃんと育ってるってのは気分がいいもんなんだな!俺の!十数年も!無駄じゃなかった!」
そうか、そうか。とおじさんは笑いながら、ベルトも閉めずに着の身着のままで部屋を出て行く。古ぼけたジャケットも、床に脱ぎ捨てられたままだ。
もう恨みつらみや俺のことなどどうでもいいみたいだった。
遠く、引き戸が開けられる音がして、誰かの靴の音がする。
俺はハッと我に返って、転がっているジャケットを手繰り寄せて、そのポケットに手を突っ込む。すると、おじさんが見せつけた首輪に繋がる南京錠の鍵と壊れた安物の腕時計が出てきた。
首輪を外して、俺はふらつきながらも立ち上がる。
思ったより狭い家の中をうろつけば、攫われてきた時に俺の着ていたらしい服は簡単に見つかった。携帯も財布もパーカーのポケットに入っていて、電源をつければまだバッテリーも残っている。
弟たちからの着信の表示でいっぱいに画面を見ていると、
――ブオ……ォォン
――ブオ……ォォン、――ブオ……ォォン
調子はずれな柱時計が10時を打った。
携帯に映った時刻からはだいぶズレている。
……あれ。あの時計。
一体、いつから壊れていたのだろう。