千年女優 (2002)

『千年女優』(2002)。今敏監督。 
「その愛は狂気にも似ている。」って歌い文句だったけど、狂気なのか?誰かを猛烈に愛している自分が好きで何が悪いんだ?希望を愛する自己肯定や自己愛じゃいけないのか。というかこのコピーでそう思わされただけで、これって恋愛物語だったのか?ぜんぜん思いが通じ合うところとかなかったぞ。鍵の男は14日目の月が好きだと言った。あの鍵は千代子にとっての恋というよりは、希望と絶望の象徴なんだと思うし。鍵の男に会ってはいけない。枠だけが一定に動き続けるけれど、悲恋物として完成してはいけない。月にしろ、絵にしろ、再会にしろ。最初は社長さんがドキュメンタリーの中でもいいから千代子を鍵の男に逢わせてあげればいいのにと思ったけど、あの千代子の語る物語だとそれはご法度。
むむむと考えた中で、私はこの映画は3通りの見方があるかなと思ってます。
・輪廻転生の物語として観る。(これがコピーの見方?)→千代に繰り返される悲恋。社長も先輩女優も鍵の男も同じ宿星の関係でめぐり続けている。ただ、そうすると、あの映画群はなんだったのか?どの話も、恋しい人をヒロインが追い求めるだけの話。千代子の愛らしさと若さで必死にすがる姿はそんなに何本も焼き増し撮るほどファンに受けたのか?確かに輪廻に沿い過ぎてて、どれを演じてもはまり役だったんだろうけど。
・輪廻転生じゃなくて千代子が老衰で記憶がごっちゃになっていたと観る。→鍵の男の情報のせいで、上記のように映画のはまり(過ぎちゃった)役と千代子の人生・記憶が老衰でごっちゃごちゃになっていたと考えると、それが鍵がきっかけになって、自分の出た映画と自分のファンの男とはなしをすることで整理して逝けたということになるのか千代子が自己を投射した映画が過去現在未来と関わりが無いなら、千代子は鍵の男と死後の世界で会えるとも取れるなあ。ある意味、ハッピーエンド?でも、そんな頭の中が渾然とした状態の中で、どうやって自分の死期を悟ったのか?とこれまた謎がいっぱい。
・三つ目。私はむしろ実際に千代子に起こったことと彼女の人生をかけて綴った、千代子という女優に化かされる話なんじゃないかなと、観終わった後にひとしきり考えた後に思った。事実とフィクションで振り返ってドラマチックな物語を作り上げたんじゃないかなと思う。この場合、命をかけたお芝居であるから、薬を飲まないことで自分の死期を作り上げたんじゃないかなあ。
 
馬の骨を名乗るほどじゃないにわかだけど、師匠のLotus三部作的に個人的は輪廻なのかそうじゃないのか振り回されてます。”Switched-on Lotus”とか、望まぬ牢(肉体、flesh)から園とか庭に行くわけだからなあ、終わりはあるんじゃないのかなあ分からん……でも変わるわけだから……ううむ。でも良い曲だよね!映画も面白かったし!いっか!
*他ブログの閉鎖を機に細々書いていたものの転載*