片蔭、陽炎・2 - 1/3

「おっと」

 思わず小走りになった足を落ち着ける。急いだせいで廊下に洗面器から水をこぼしてしまった。いけない、いけない。上がった息を整える。不安で胸がドキドキしてるのが自分でも分かる。
 こういうときに何でお父さんいないのかなあ。
 参拝に来た人が熱中症で倒れちゃうなんて。なんかトラブルがあったときにいないなんて心細い。ぎんもハルちゃんもいるけどさ。銀太郎なんかあの子が本殿前の鳥居に来たときはあんなまじめな顔して救急車は呼ぶ必要はないって言ったくせにすぐにどっか行っちゃったし。なにしてるのか知らないけどさ。薄情者―!
 社務所の真ん中、座布団を寄せただけの急ごしらえのベッドの上、男の子の顔色はひどく悪い。

「今日、暑かったもんなあ」

 このあたりで見たことのない顔だ。もしかしたら、雑誌やパンフレットを見て来てくれた観光客かもしれない。この猛暑の中、なれない土地を歩いたら具合だって悪くなる。うちの神社、坂の上だし。なんとなく申し訳ない気分になる。
 洗面器に手ぬぐいを浸し、水気を絞る。前髪をかきあげた額の上にそれを乗せる。ガーゼで包んだ保冷剤を首元や脇に挟んでみると、男の子の眉間のしわが緩んだ。

「こういう時、スポーツ飲料を薄めずに飲ませるのがいいんだっけ……?」

 昔、保健の授業で習ったことが実際に使われることになるなんて思ってもみなかった。
 隣接の家の台所へ走ってまたすぐに引き返す。腕に抱えたペットボトルは異様に冷たくて、余計に胸の動悸が激しくなる。

「あっ」

 社務所の戸を開けると、どこかに行ってしまっていた銀太郎がハルちゃんと一緒に男の子の顔を覗き込んでいた。誰かの枕元に神使が居てじっと見ているっていうのは、よく考えれば不思議な光景だ。

「もう、どこに行ってたのよ!」

 思わず声を上げた私に、ハルちゃんがさっと振り向いて『静かにして』と口の前で指を立てる。

「ご、ごめん。その子、まだ起きない?」

 小さな声で話しかけると、視線を逸らすことなく、銀太郎はしっぽを一振りだけした。これは『イエス』ってことかな。息切れを抑えながら、持ってきたスポーツドリンクを脇に置く。
 やっぱり起こさないと飲ませられないよね……。
 銀太郎やハルちゃんにならって顔を覗き込むと、さっきよりはだいぶ男の子の顔色がよくなっている。
 よかった。落ち着いたみたい。
 たぶん同い年か年下くらい。目の前に居るのに、夏の蜃気楼のように不安定に揺らぐ感じ。
 なんか寝てるだけなのに、不思議な雰囲気の子だな。目を開けてしゃべったらどんな感じなんだろう。さっきの鳥居と白いシャツのイメージが頭の中から離れない。
 そんなことを考えていると、じっと見つめるその目がふいに開いた。

「あっ!!こいつ気が付いたよ!」

 ハルちゃんが声を上げる。

「先、生……?」

 そう言いながら、その子は銀太郎に向かって手を伸ばした。