鈴木家の仏間には、仏壇だけではなく神棚もその横に祭られていた。
仏壇と神棚には水の入ったコップがそれぞれ置かれ、両脇に仏花と榊が供えられている。この部屋のものは常に誰かが綺麗に掃除しているらしい。
唐次さんが編集長から頼まれていた菓子折りと香典を渡すと、照彦さんはおれと唐次さんで線香を灯した香炉の横に供え、鈴棒で鈴を叩いて手を合わせた。その自然な動作に、鈴木家の家人の神仏や祖霊との身近さを感じる。
「お土産もお香典も、なんか気を遣わせちゃって。悪かったな、唐次」
「いや、今は渡したのは松野編集長に頼まれた分で、オレたちからはこっちだ」
おれからも香典袋と菓子折りを寄越すと、照彦さんは少し驚いたような顔をしたがすぐに笑った。
やはり父親が亡くなったというのは堪えただろう。ああ、少しやつれたかな、とその笑顔を見て思う。
「……ありがとう。松野編集長にもよろしく言っておいてくれ」
「ああ」
それにしても、香典はいいとしても、おれたちからと編集部からのお土産二箱は今思うと多過ぎたかもれない。日持ちするものを用意したのがせめてもの救いだが。
周囲を見回すと、壁の長押には兵隊服の若者や着物を着たおばあさんの白黒の写真がかけられ、こちらをじっと冷たい目で見下ろしてくる。仏壇には位牌が多く置かれていたが、写真は飾られていなかった。亡くなった照彦さんの父親というのはどの写真の人だろう。
「紫坂くんは生まれも育ちも東京なんだっけ?やっぱこういう雰囲気って珍しい?」
さっきからおれの意識がどこかに飛んているのが見て取れたのだろう。照彦さんがおれに話しかけてくる。
「あ、じろじろ見てしまってすみません。そう、ですね。おれの家には神棚とかは無かったです。でも、父のフィールドワークで一緒に訪ねた家とかではよく見た気がします」
フィールドワークという言葉に、ああ、と照彦さんが目を細める。きっと、父親のことを思い出したのだろう。
「俺たちには当たり前だけど、民俗学をやってると研究対象になるんだろうね。確か神棚に祭られているのは、ワクムスビ、だったかな。和に久しい産まれる巣の日。養蚕の神様で、ここいらだと祀ってる家も多いよ。久和原の字はこの神さまから取ったって言われてるし。ちなみに庭には氏神さんもいるし、畑の中には何祀ってるかは分かんないけど昔から祠なんかもある。言ってくれれば案内もするから」
「……ありがとうございます」
せっかくお菓子を頂いたし、お茶にしようか。そう言って照彦さんはおれたちを居間に通すと、お茶の準備に部屋を出て行ってしまった。
「フッ、はじめくんは相変わらずメモ魔だな」
いつもの癖で、空いた時間ができると、メモを取り出してしまう。タクシーで聞いたこと、衣脱ぎ朔日、和久産巣日神。まとめられていなかったことがたくさんある。
唐次さんはそれを見逃さず、笑いながらからかってきた。
「唐次さんがメモを取らなすぎるだけでは……そんなだから、いつまでたっても漢字の書き取り弱くて変なメモしか残せないんじゃない?」
唐次さんの取材メモは、書かせてみると本当にひどい。脱字などはないが、漢字間違いが多い。使う言葉やニュアンスには妙なこだわりを見せるくせに、その美意識は漢字には及ばない。だから、読んでいて脱力するような文章を書いてくる。
それは多分ボイスレコーダーばかり使って、普段字を書かないから漢字というものに意識が向いていないからだろう。それとも、元より文章を書くのが苦手だからボイスレコーダーを使っているのか。
と、以上がおれが時たま唐次さんの代筆を請け負う理由である。
「む、いや、でもオレには紫坂大先生という強力な助っ人ライターがいるからな!」
「じゃあ次回から代筆料は大先生料金にしようか」
うーん、と腕を組んで唐次さんが黙る。おれは内心笑っていた。百々史君がもしここに居たら、きっと一緒に笑ってくれるだろう。
まあメモに関しては、編集長にしろおれにしろ、唐次さんを甘やかし過ぎているかもしれない。
「あ、日芽子。お前、お兄ちゃんのお友達にちゃんと挨拶したか?」
お茶を持ってきた照彦さんの声に顔をあげると、廊下にあの少女が立っていた。
本人からの自己紹介はまだ無いが、照彦さんからは紹介を受けている。鈴木日芽子。今は小学4年生とのことだ。
「こっちが青戸唐次でこっちが紫坂一くん。このお兄ちゃんたちがお菓子をくれたから、一緒に食べよう」
そう言って照彦さんは唐次さんの横に座ると、それぞれの前におれたちの持参したお菓子とお茶を四人分だしてくれた。
しかし、その間にも少女は身動き1つ取らない。
照彦さんの妹さんと分かった今ではもう流石に不気味さは感じないが、相変わらずつかみどころのない少女だ。
「どうしたのかな?」
その空気に耐えかねたのか、唐次さんが柔らかい口調で話しかける。
しかし、少女はこちらを見たまま動かない。その視線と真正面でぶつかり、おれは落ち着かない気分になった。
何か気に触るようなことをしたのだろうか。それとも、兄を取られまいとおれたちに嫉妬しているのだろうか。丁呂介さんの家にもダヨ子ちゃんがいたが、こんな態度は取られなかったはずなのに。とにかく、何か言いたいことがあるのだろう。
じっと彼女の次の行動を待つ。やっと開かれた口から出たのは、小さな小さな声だった。
「……お兄さんは、ミンゾク学者なの?」
ばっと照彦さんと唐次さんを見る。すると、二人がこちらを見て頷いた。どうやら、おれに話しかけているらしい。
念のため自分を指差してみると、少女はこくりと頷く。
この子はなんでこんなことを尋ねるのだろう。
「えっ、うん、学者って言えるほど大したもんじゃないけど。一応……そんな感じかも」
おれのもごもごとした答えを聞くと、少女はゆっくりと後ずさり、急に踵を返して家の奥へと駆けて行ってしまった。
照彦さんが大きくため息をつき、手元のお茶をぐっと仰いだ。
「気にしないで、紫坂くん。あいつ、ただ照れてるだけだから」
「はあ……」
「親父が民俗学者だったから、影響を受けているって言うか。なんかそういうのに憧れてるらしくってさ。読めもしないくせに勝手に物置の本を漁って、散らかしたりして困ってるんだよね。なんだか年寄り衆が言うみたいな迷信深いことを言ったりさ」
そこまで一息に喋ると、照彦さんは急に黙り、一回り小さい薄桃の湯のみに入ったお茶を自分の薄青の湯のみに移し替えた。彼女が戻ってくるのはもう諦めたように見えた。
それから、急に思い立ったように、ズボンのポケットから小さな鍵を取り出す。
「親父の話で思い出したんだけど、これ、親父の書斎の鍵。原稿なんかはそこにあるから渡しとく。書斎の扉が引き戸でさ、猫が入っていたずらするから、いつも鍵を閉めてるんだ」
握っているうちにどこかへ無くしそうなほど小さな鍵。おれは神妙に鍵を受け取り、財布に入れてポケットにしまった。
「この家には猫が居るんですか?」
「うちの猫じゃないんだけど。おしらさん――この辺りの言葉でお蚕さんって意味なんだけど、おしらさんの鼠除けに昔からここらへんだと猫がたくさん飼われてて。なんたって猫だから、勝手に入ってきちゃうんだよね」
養蚕が盛んだった地域では、蚕をネズミが齧らないようにと天敵の猫を飼う家が多かったという。そこから猫神として崇めていた場所も多くあり、しまいには猫の絵を飾ると鼠害にあわないとして鼠除け札などというお札が信仰を集めたという話を以前聞いたことがある。久和原も例に漏れず、鼠除けとして猫を飼っていたのだろう。
猫の他に、鼠除けとして蛇や百足を崇める地域もある。衣脱ぎ朔日に蛇の話が出てくるのは、もしかしたら蛇神信仰のある地域なのかもしれない。百足もだが、蛇も蚕のように脱皮をして大きくなる。調べてみるのは面白そうだ。
「あと、お願いしたい蔵書の方は物置にもあるから。後で案内するな」
「あ、はい」
書斎に、物置。察する限り、想像していたよりだいぶ量が多そうに聞こえる。唐次さんにもかなり手伝いを頼むことになるかもしれない。
ふと、さっきから静かな唐次さんを見やると、ぼんやりと周囲の壁を見上げながらお茶を飲んでいた。
「なあ、照彦さん。どの人が亡くなられたお父さんなんだ?」
先程のおれと同じことを考えていたらしい。
唐次さんが長押にかけられた写真を指差す。その言葉におれも頭の上を見る。先程の仏間よりは家庭の匂いのする写真が多いが、どれもセピア色に変色しており、どうも最近撮ったと思われるものではない。
照彦さんも周り少し見回した後、一枚の写真を指差した。
「うーん、最近の写真ではないけど、あれがうちの両親とおば」
へえ、と言って唐次さんが立ち上がる。おれもつられてその横に立ち、額縁を覗き込んだ。
玄関の前に立つ二人の年若い女性と男性。まず目を引くのは、驚くほど見目が華やかな女性。ほっそりとした体に載った輪郭の柔らかい瓜実顔を長いウェーブのかかった髪が包んでいる。鄙にはまれな、という言葉がしっくりくる美人だ。もう一人の女性は前述の女性に比べるとふっくらとしていて地味だが、肩までのまっすぐな髪ときちんとした服装が楚々とした雰囲気で、はっきりとした目元には知性を感じられる。男性は端正な顔立ちではあるが、かけている眼鏡のせいかややぼやけた印象を受ける。その笑顔からは気の弱そうだが優しそうな人柄がうかがえた。
「照彦さんはどちらかと言うと、お母さん似なんだなあ」
唐次さんは照彦さんに話しかけるようでなく、呟くようにそう言った。