狭い4畳間。両側の壁には背の高い本棚が置かれ、本がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。正面の小窓の前に置かれた文机の上の灰皿には、垂直に押し付けて消された煙草が1本残され、側には栞の飛び出た本が数冊積まれている。さっきまでそこで誰かが読書の休憩に一服やっていたかのようだ。
「埃っぽいな」
一緒に部屋に入った唐次さんが、これではたまらないと一つしかない明り取りの小さな窓を開ける。
それを皮切りに、普段から鍵がかけられていたという書斎の時間が動き始めた。むわっとした空気に微かに残っていた煙草の匂いが、窓からの風に流されて消えた。
ああ、人が居なくなるというのはこういうことなのだ。
おれは呼吸がしやすくなった空気をしみじみと吸い込む。ここに居た誰かの名残がかなり薄まってしまったのを感じながら、壁を埋める本棚を見、東京の家の父親の書斎をなんとなく思い出した。
書斎の真ん中にある茶革の洋椅子。もうあの椅子に誰も座らなくなってから、どれほどの時間が流れただろう。赤塚から戻った後も、父親の行方は未だ分からない。いや、父親と言えど厳密には血の繋がった父ではない。しかし実の父親でなくとも、20余年の一緒に過ごしてきた時間がある。部屋を片付ける気になるのは簡単じゃない。
それでもその部屋を長くそのままにしている罪悪感はいつもどこかで感じている。
本当はおれはこんなところで他人の遺品整理を手伝うより前に、自分の家のあの部屋を片付けたほうが良いのではないだろうか。一人で住むには、あの家は広すぎる。維持費だってかかっている。綺麗さっぱり片付けて、だれかに貸し出した方がいいのではないだろうか。
「はじめくん。それで、どこから始めるんだ?」
唐津さんの言葉にはっと意識が東京から帰って来る。
おれは慌てて周りの本棚をぐるっと見回した。本のジャンルはかなり幅広い。原稿用紙の束が縛られて本棚の下の方に積まれている。
「とりあえず、おれはまずは原稿を見ようと思う。だから唐次さんは本棚の本を下ろして、一次資料っぽいものと二次資料っぽいものに分けてもらえる?奥付け見て、版が初版とかで稀覯本そうなのとそうでないのとか、本当にざっとで良いから。煙草吸ってたみたいだから、高くは引き取ってもらえないだろうし」
「了解だ」
唐次さんはきびきびとすぐ本棚の上の段に手を伸ばし始めた。その背中を見、ふっと思う。
唐次さんは、『養父』の遺品はもう整理し終えてしまっているのだろうか――
「はあ……やる、か……」
重い腰を上げ、原稿用紙の束を一つ取り上げてみる。
そしてすぐに気がついた。何十束もあるが、束の一番上の端書きにはタイトルがつけられているし、赤の校正も入っている。裏返してみれば、日付と出版社の名前が書いてあった。束ねてあるものに関しては、すでに出版されたり出版社に売却済みのものであろう。そのうちの何束かのタイトルは、編集部の資料室で読んだことがあるものだった。
自分の仕事を目に見える形できちんと残そうとする姿勢に、恐ろしく几帳面な性格が窺える。
原稿に関しては、すぐ整理が終わりそうだ。
ちらりと唐次さんの様子を見る。唐次さんも何か思うことがあったらしくすぐに目が合い、微妙な表情で笑った。
「……人の頭の中を知りたければその人の本棚を見なさい、と人は言う。その点、照彦さんのお父さんという人は見聞の広い人だったんだろうな」
照彦さんの父・鈴木光彦は、所謂『ディスカバリージャパン』的物珍しさでオカルトブームの走りとして民俗学が再発見され始めていた時代の寄稿者だった。特に中部から北関東にかけての民話を研究し、時には日本人論的な題材の寄稿も行なっていた。
「そうだね……」
敗戦体験から出発し、高度経済成長によって復権した時代。外国を受け容れて物質的に豊かになった日本社会に対し、その影で失われつつあった伝統文化が再発見ざれた時代。民俗の消滅がしきりに叫ばれた時代。また、核兵器や公害、緊迫した国際社会の状況による大きな社会不安の生まれた時代。
あの時代のあの世代の人々は、様々な視点から理由や本質を探ろうとした。その思索が、本棚から垣間見れるような気がする。
「それにしても、かなり几帳面な男だったようだな。ほら、はじめくんも一応確認してくれ。線引きしないで、栞みたいにメモ書きを挟んでるんだ」
そう手渡された一冊を開くと、足元にメモ書きがはらはらと落ちた。おっと、と声を上げて唐次さんが床に落ちたメモを拾う。
「あ、ごめん」
なるほど、唐次さんの言う通り何枚も何枚もメモが挟まっている。
「本を読みながら様々なことを連想や想起に任せて考えるタイプってのは少なくないからなあ」
唐次さんがそうぼやく。別の本を取り上げて開くも、やはりおびただしい数の紙が挟まれていた。
もしかして、この部屋と物置の本全てがこの調子なのだろうか?
「にしても、尋常じゃないでしょこれは」
「オレにとってははじめくんのメモもこれと変わらないが……まれびと、か。なんかの用語か?」
拾ったメモを読んでいた唐次さんが手を返して、そこに何が書いてあるかを見せてくる。その手の中の紙には、『ここにおけるまれびとの役割は、』という書き出しでつらつらと文章が書かれてあった。
「まれびと。有名な民族学者が唱えた概念で、簡単にいうと来訪神ってやつかな。神様がどっかから来て、福をなしたり災いをなしたりするってよく昔話にあるでしょ。あれのこと。まれびと信仰とも言うかも」
神様ねえ、と唐次さんはよく分かりかねるとうめいた。神様という言葉を使うと、大体の人は訝しむ。
言葉を端折り過ぎたらしい。
おれは本の整理を再開した唐次さんの近くで原稿を広げながら少し反省した。
「神様って言っても神様そのもじゃなくってよくて、旅人とかのコミュニティの外部の人間なら当てはまるんだよ」
まれびとは自分の知らないところから訪ねてきたものを厚く歓迎して、神として崇める信仰の形だ。
人間は自分たちとは異なるものに対して畏怖や尊敬や嫌悪を覚えるものである。昔は交通の便が今とは比べ物にならないほど悪かったから、自分の生まれ育った土地で死ぬまで生きることも多かった。地図も無ければ、自分が世界でどの位置にいて他にどんな土地があるかなんて全然知らない。自分の知っている土地以外は混沌とした「異界」みたいなもの。その「異界」からやってくるものだから、畏るべきものになる。畏るべきものだから、神様扱いになる。
日本の神様は荒魂・和魂みたいな側面があるが、このまれびとも同じで扱いによっては福も厄も与える。だから、どんなまれびとも神になり得るのだろう。単純に福なら金銀財宝をくれましたって話もあるし、農業や採鉱や加工とかの暮らしを豊かにする技術とかをもたらすって場合もある。逆に厄なら、祟り神のように人の命を奪ったりする。この話の元は単純に旅人が他の地域の病気とかを持ち込んで村で蔓延したとかの話なのかもしれない。
福や厄というのは、その共同体から見た結果でしかない。共同体外のものがやってきたことで、共同体は自分たちと比べて差異に驚く。共同体の中に揺らぎがでてくる。まれびとは知識や宗教や思想をもたらすこともある。その知識が共同体が理解・再現できる時、従来の常識を破壊することになる。そういう時、厄と見なされることになる。
いつの間にか唐次さん作業の手が止まっている。
何か自分の中のテーマとかち合うワードがあったらしい。こういう時の彼の話は面白く、聞くたびに独特の世界を持った人だと感じる。
「自分と違うことが神になる要件なら、異なる人種や民族も当てはまるのか?アメリカ大陸が見つかった時にヨーロッパ人が持ち込んだ天然痘で、免疫のない原住民がたくさん死んだという話を聞いたことがあるが。彼らはヨーロッパ人を神として歓迎したとか聞くな」
「それは偶然、彼らの神々のうちの一柱の特徴が肌が白い神だったからっていうのはあるけど……うん、入植民もある意味まれびとだね」
西洋人と出会った時、原住民は自分たちの持たない技術や文化にカルチャーショックを覚え、そしてその『不思議』を西洋人が持つ霊的な力だと解釈した。その解釈が発展したものが、カーゴ・カルトなどの信仰だろう。
入植や侵略は連続して大規模で行われる。しかし、一度きりの個人的な訪問ならどうなるのだろう。冒険譚や冒険映画ではジャングルの奥地や離島などの孤立した未開の地に足を踏み入れた主人公は、テリトリーを乱すものとして未開の地の住人たちに襲われる。まれびともこれと同じではないだろうか。
共同体を揺るがしたり破壊しそうになった時、まれびとは冷たくあしらわれて追い出されたり殺されたりする。そして共同体の秩序は回復されて再構築される。大体はその後にまれびとの影響の残滓――まれびとの祟りがある。共同体は結局まれびとを認めざるを得ない。
日本全国に残っている落人伝説では、村人がなんらかの理由で落人を殺すことが多い。殺した場合はその後落人の祟りがあらわれる。そして村人は塚を作ったり土地神様として祀ったりする。
「話を聞いていると、まれびとの役割はまるでプロメテウスかなんかのようだな。トリックスターみたいだというべきか、名無しの文化英雄と呼ぶべきか」
「まれびとのような存在が神話や物語になったら、まさにそんなキャラクターになるだろうね」
作業のついでに中々話し込んでしまったが、このテーマは中々面白いかもしれない。世界にある似たような寓話や伝承。ユングの元型。物事に普遍的なものを発見する喜びは変えられない。
今まで唐次さんと話したことを簡単にメモする。おれが興味をもったことに気を良くしたらしい。唐次さんはポーズを取って格好つけた。
「フッ、二面性というのは、神は選べないというグウイなのかもしないな」
唐次さんに『寓意』という漢字は書けるだろうか。
今の言葉もメモに書きつけながら、おれはついにやにや笑いをしてしまった。